言葉の壁、人の殻

brahms_trio_ashkenazy_perlman_harrell.JPG「もう、ドイツ語だったら良かったのに!」
妻は7年間ほどウィーンに住んでいたこともあり、ドイツ語が堪能である。同じヨーロッパの言葉といえども英語やフランス語、それにイタリア語は各々まったく異なる。地続きという土地柄、昔は異邦人から領土や民を守るため、言葉が通じないように各々の国が独自の言葉を残していった名残なのだろうが、似た単語や言葉はあれ、感覚的にまったく違うらしい。
先日、ある会合で英語が飛び交う状況になり、その場になかなか適応できず、英語がわからないもどかしさと同時に、ふとドイツ語だったらよかったのにと思い、「もうドイツ語だったら良かったのに!」とひとり心の中で叫んだとのことだ。ドイツ語を母国語にするブラームスも英語が苦手で、せっかくの渡英の機会なども躊躇し、国際的な会合には進んで顔を出さなかったらしい。シャイとか人が苦手という前に、言葉の壁はやっぱり大きいのだろう。

かくいう僕も全く英語が理解できなかった学生の頃(もちろん読み書きは問題なくできていたが)、初めてアメリカ大陸を訪れたときのことを思い出した。アメリカ人だけの中にひとり入り込んでホームステイを体験、1週間だったか2週間だったか過ごしたわけだが、言葉がまったく通じず、あるいは理解できないことがどれだけ辛いことだったか。身振り手振りで一生懸命説明しようとしても相手の言っていることがほとんど理解できないのだから、ニコニコ微笑むくらいしか打つ手がなかった。ある日、どうやらホスト・ファミリーに誤解されたようで、ホモ・セクシャルであろうと思われる友人の家に連れて行かれ、そこで一泊しろと薦められ、吃驚した。ともかく「ノー、ノー」と連呼することしかできず、怪訝な顔をされてもとにかく「君の家に帰りたいんだ」と拙い英語で捲し立て、ようやく事なきを得た。今から思うと、そういう(英語でコミュニケーションができない)僕を預かってくれたホスト役のお父さんお母さんも大変だっただろう。申し訳なかったとつくづく思う。

夜、ミーティングをしていて、H君が「話は変わりますけど」と前振りをして突然僕にアドバイスをくれた。
ブログの岡本と現実の岡本に随分乖離があるのだと。要は、ブログを読んでいる限りでは非常に女性的な(というよりユニセックスな)柔らかい側面が感じ取れるのに(本当かな?)、実際に対面すると(特に初対面では)その良さが汲み取れない、そう、がちがちの分厚い殻に覆われているような感覚をもつのだと。うん、思い当たる節は大いにある。セミナーに参加していただく方には「殻を破って自由になり、自身の才能を伸ばすためにこうした方がいい、ああした方がいい」と余裕でアドバイスする癖に、いざ自分のことになると途端にどうすればよいのかわからなくなる。殻をぶち破れば明らかに才能が開花することがわかっていても、その殻を破ること自体どうすればできるのかがいまひとつ「身体でわからない」(潜在意識ではわかっているのだろうけど)。もう一越えだと思うのだけど・・・。

ブラームス:ピアノ三重奏曲第3番ハ短調作品101
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
イツァーク・パールマン(ヴァイオリン)
リン・ハレル(チェロ)

1886年、チェロ・ソナタ第2番やヴァイオリン・ソナタ第2番と同じく、ブラームスが精神的にも肉体的にももっとも充実していた頃に書かれた名作。悲しみも悩みもほとんどなく、創作力も旺盛で一番脂の乗っている53歳のころである。何よりブラームスらしくなく「明るい」ところがこれまたとっつきやすい(笑)。

ところで、昨年10月6日の当ブログでチャイコフスキーのトリオを採り上げた際、雅之さんからいただいたコメントのことをふと思い出した。
「ピアノ三重奏曲という曲種は、求心力より遠心力が働きがちな室内楽で、だからこそ個性の強い名手3人の臨時編成での名演が成立しやすいですよね」

このアシュケナージ、パールマン&ハレルのトリオはまさにこの言葉通りの名演奏を聴かせてくれる。

2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
言葉は、日本語であろうが、英語であろうが、ドイツ語であろうが、イタリア語であろうが、穴だらけですよね。それぞれの言語で相互に正確な翻訳、置き換えができないニュアンスや感情表現が無数にありますよね。その国の自然や文化に深く根ざした部分も多いですしね。異国の歌曲の正しい理解がいかに困難かが、よくわかりますね。
楽譜も言語と同じですね。音符と音符の間には、本来は無数の楽譜では表現しきれないニュアンス、表情、感情表現等が詰まっており、それを自分の信念と想いで補い表現し尽くすことこそが、演奏家の仕事、役目なのでしょう。
>ブログを読んでいる限りでは非常に女性的な(というよりユニセックスな)柔らかい側面が感じ取れるのに(本当かな?)、実際に対面すると(特に初対面では)その良さが汲み取れない、そう、がちがちの分厚い殻に覆われているような感覚をもつのだと。
これはあくまで私見ですが、まったく気にすることはないと思います。短所は長所であり長所は短所なので、要は岡本さんの持ち味というだけのことです。「頑固一徹の何が悪い!! これこそぶれない自分軸の体現なのだ!! これでいいのだ!!」くらいの自信を持たれてもよいと思いますが・・・。
ピアノ三重奏曲の奏者に必要な適性は、協調性よりも、各自の頑固なまでの自己主張と思いあがりです。
日本人よ!、もっと思いあがれ!! そして内向き志向になり過ぎるな!!と、叫びたいです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
人の想いや考えという「曖昧な」ものを記号化すること自体無理があるということですよね。日本人同士でも同じ言葉を使っても違ったように捉えられたりすることが多々ありますしね。
それによって問題が大きくなってしまったり・・・。
むしろ言葉の要らないコミュニケーション、そう「心つなぎ」のコミュニケーションというものが真に大切なのではと思えてきます。
>短所は長所であり長所は短所なので、要は岡本さんの持ち味というだけのことです。「頑固一徹の何が悪い!! これこそぶれない自分軸の体現なのだ!! これでいいのだ!!」くらいの自信を持たれてもよいと思いますが・・・。
ありがとうございます。おっしゃるとおりですね。特に気にはしていないのですが、「なるほど、人の感じ方とは面白いものだな」と思ったのでブログに書いた次第です。
>日本人よ!、もっと思いあがれ!! そして内向き志向になり過ぎるな!!
まさに!!

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