昨日は夏日、今日は冬日

mahler_5_rattle_bpo.jpg今年の気候の特徴は、暑くなったり寒くなったり日替わりで異常なくらい変動することだろう。「異常」な事態である。人間でも不安定な時は感情の起伏がそれなりにあり、誰でも日々の生活の中で気持ちが上がったり下がったりする。それが精神に異常を来したなら、突然激昂したり、あるいは突如として落ち込んだり、普通では考えられないほどの頻度で感情の爆発と沈潜を繰り返す。いわばそんな状態か・・・。
例えば、幼少期にストローク(受け入れ)が足りなかった時、人間は「不満状態」になり、それが因となり他者を求め過ぎるという「依存状態」に陥る。表面的には威勢よく明るく振舞っていても、常に何かが足りないという「飢餓感」が自身を支配する。
クリシュナムルティは、人間にとってまず大切なことは「自分自身を認識する」ことだと常々語るが、その中で「孤独」ということについては次のように語る。

・精神が自らの寂しさに気づくとき、それは逃げ出し、逃避しようとします。その逃避は、宗教的な瞑想への逃避であれ、映画に行くことであれ、完全に同じです。それはなおも現実にあるものからの逃避なのです。飲酒によって逃避する人は、神の崇拝によって逃避する人より非道徳的なわけではありません。どちらも同じ、どちらも逃避なのです。
寂しさは憂鬱である。「独り在ること(aloneness)」は喜びである。「アローンネス」の中には恐怖はありません。・・・その中には自己を閉ざすプロセスはありません。人は独り在らねばなりません。・・・寂しさは欲求不満の状態です。
・「寂しさ」とともに生き、それを変えようとせず、正当化したりコントロールしたりしようとしないでいることができるなら、精神はそのときたぶん、その寂しさを、絶望を越えることができるでしょう。
「人生をどう生きますか?」(大野龍一訳・コスモス・ライブラリー)

「寂しさ」と「独り在ること」は違う。要は、静かになり、すべてをありのままに受け容れろということ、それにはまず自分自身を知り、認めることだ(しかしそれはエゴがある以上やっぱり難しいことだ)。

まるで地球が悲鳴をあげているようだ。人が私たちをかまってくれない、寂しい・・・と。
昨今の地球の寒暖差は我々に何を気づかせようとしているのだろう?
人間の状態の投影だと考えるなら、ひとりひとりがもっと「静か」にしたほうが良いよという示唆なのか・・・。

マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2002.9.7-10Live)

今年の気候のようにあまりに感情の起伏が激し過ぎて聴き始めの頃はついていけなかった音楽にマーラーの第5交響曲がある。彼の創作した交響曲の中でも、とびきり支離滅裂感を拭えない(それはいまだにそうである。いつ聴いても精神に安寧を与えてくれるどころかイライラ感を募らせる)。

静寂と安らぎの瞬間が訪れる、見事にアンバランスな第4楽章アダージェットの10分間ほどだけが心の拠り所だ。作曲時期がちょうどアルマ・シントラーとの出逢いから結婚という時期に重なるだけあり、類稀な美しい音楽だが、他の楽章はそういう幸福な「時」だったがゆえの「本性」が投影されてしまっているかのようだ。自身の感情をそのままぶつけた「ありのまま」のマーラーは怖い。

ラトルの音楽作りは、その「怖さ」を幾分和らげている。バーンスタイン&ウィーン・フィルの名盤と違い、あくまでクールに、溺れず第三者的な目で音楽を淡々と進めてゆく(かつてアナログ盤で聴いていたマゼール&ウィーン・フィル盤もそういう意味ではよかった)。これならまだ安心して身を委ねられる。


6 COMMENTS

雅之

こんばんは。
マーラーやショスタコの交響曲は、実演に接するか映像を観なきゃ、その曲や演奏の真の理解は出来ない、これが最近の私の確信的持論です。
楽譜指示上の管楽器のベル・アップやスタンド・アップはどの程度忠実に、どのようになされているかとか、コンマスの調弦の異なるヴァイオリンの持ち替えの面白さとか、ハープは何人かとか楽器編成や楽器・合唱の配置はどうなっているかとか、カウベルはどこで鳴らしているかとか、どんなハンマーを打ち下ろしているか、そういう無数の舞台の内外での出来事に他の聴衆と一緒に演奏の全貌に接して、初めて理解可能な演奏の意味が多々あり、音で聴くだけの印象とは大きく異なる場合が多いです(こうした曲での視覚効果の要素が大きいことは、ショスタコの実演でも痛感しました。ショスタコは間違いなくマーラーの後継者だと思います)。
ご紹介のラトルの演奏も、DVDだと発見が多いです。
有名なところでは、第3楽章をホルン・ソロ奏者を前に立たせて、完全なホルン協奏曲仕立てのスタイルにしていることですね。
http://www.youtube.com/watch?v=EP78ipJOyj8&feature=related
この一目瞭然の楽しさがCDだと確認できないことは、チト寂しいです。
マーラーの交響曲第5番についてのご見解等、本文内容についてはほぼ同感です。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
>マーラーやショスタコの交響曲は、実演に接するか映像を観なきゃ、その曲や演奏の真の理解は出来ない
おっしゃる通りですね。僕は楽譜のことはあまり詳しくないので、雅之さんほど深く読み込むことはできないですが、よくわかります。
ラトルの第5のDVDについても同感です。ホルンを前に立たせているのがラトルらしいひらめきで、視覚的にも面白くていいですよね。
最近はマーラーのシンフォニーを聴く機会はめっきり減りましたが、たまに聴くといいもんですねぇ。

返信する
雅之

おはようございます。
ラトルのマーラー第5第3楽章での1番奏者のホルン・オブリガードの扱いについては、「レコード芸術」2008年9月号「究極のオーケストラ超名曲徹底解剖」の、金子建志氏による解説に詳しいです。
国際マーラー協会の全集信版として2002年に刊行されたラインハルト・クビーク版の新校訂報告に、メンゲルベルクがアムステルダムで使用したスコアに「ホルン・オブリガードは、コンサートマスターの前方のそばに位置して、ソリストとして吹く」という記述があることが報告されていて、括弧付きで「マーラーの(スコア、演奏?)も!」とあるので、「当時は、そうしたのか」とばかり、さっそくラトルなど指揮者たちが先物喰い的に飛びついた、というのが真相のようですね。
この曲の分裂的・支離滅裂的面白さは、様々な気分の曲を入れた、演出上の仕掛けの多いエンターテイメント性のあるロックやJポップのコンサートだと思って実演に接することを前提とするべきですね。博覧会的イベント性もありますし・・・。オーディオの前に座って音だけで全曲を聴くことは、マーラーは想定していなかったのですから、本来あるべき曲との接し方ではないですね・・・。
ところで、上述レコ芸記事で金子建志氏も述べられているのですが、この曲の冒頭、みんなメンデルスゾーンの〈結婚行進曲〉との類似性ばかり話題にしますが、瓜二つなのは、じつは《無言歌》第5巻作品62-3〈葬送行進曲〉なんですよね。何か、ユダヤ人としての暗黙のメッセージが込められているのでしょうか?
メンデルスゾーン 《無言歌》第5巻作品62-3〈葬送行進曲〉
http://www.youtube.com/watch?v=Evc-6YcEtns
マーラー 交響曲第5番 冒頭
http://www.youtube.com/watch?v=NWed6wj4pJs&feature=related

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
詳細をありがとうございます。
>この曲の分裂的・支離滅裂的面白さは、様々な気分の曲を入れた、演出上の仕掛けの多いエンターテイメント性のあるロックやJポップのコンサートだと思って実演に接することを前提とするべきですね
確かにその通りですね。だいぶ前に大植英次&ミネソタ響が来日した折、第5を聴きましたが、結構面白く聴けたことを思い出しました。
>じつは《無言歌》第5巻作品62-3〈葬送行進曲〉なんですよね。
おぉ、確かに!
「結婚」と「葬送」・・・、これは意図的な意味がありそうですね。調査してみます。

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