ノスタルジー

beatles_rubber_soul.jpg突然何の脈絡もなく昔のことを思い出すことがある。渋谷にある某大学でのいつもの「キャリア・プランニング」の授業の後、今度は神奈川県の相模原に移動して別の講義。フレッシュな1年生を相手に思いついたことをいろいろと話しているうちに、30年近く前、大学入学のため初めて上京してきたあの頃のことをまざまざと思い出した。当時は、大学生活でこんなこともやってみたい、あんなことも体験してみたいなど人並みに「夢」を描いていた。ところが、月日を経るにつれ、周りに流されるようになり、気がつくといつの間にかいわゆる「怠惰な」大学生活を送るようになってしまっていた(それはいまだからそう思えることで、当時はそれを「怠惰」だとは解釈していなかった)。人って環境に左右される生物だ。周りがどんなに足を引っ張ろうと、断固としたアイデンティティを維持し続けることはとても難しい。

帰路は「八王子」を経由して中央線で「新宿」に向かった。そして、27年前に住んでいた「三鷹」を通り越し、その1年後に住んでいた「中野」につく直前、ついついこの街が懐かしくなり途中下車した(確か以前も話題に出したことがある)。1時間ほどぶらりと周辺を散策していたら、頭の中でThe Beatlesの音楽が鳴り出した。

Johnが暗殺されてちょうど3年ほど経った頃、僕は初めてまともにThe Beatlesを聴いた。“Help!”という名の赤い色をしたLPレコードだった。タイトル・ソングのあのシャウトが始まるなり、虜になった。そして何度も繰り返し、擦り切れるくらい聴いた。

20歳近くになってからのThe Beatlesの洗礼は強烈だった。夏休みにカセットテープにダビングした”Help!”を持ち帰り、実家でも繰り返し聴いた。当時、まだ小学校の低学年だった弟が何度も反復される音楽を覚えてしまったようで、特に意味もわからず、ただただ耳から入る英語の歌を真似て歌うようになっていた(彼がそのことを覚えているかどうかは知らない)。Paulが作曲した”I’ve Just Seen A
Face(夢の人)”である。名曲”Yesterday”の前に収録されたカントリー調の楽曲で、Wingsのライブでも採り上げらているくらいだから、Paulのお気に入りだったのだろう、これは隠れた名曲だと僕は思う。

“Help!”までのThe Beatlesの音楽は直接的だ。何とも言えない荒々しさとストレートに心に響く音楽作りが初期の魅力である。そして、この次のアルバムで彼らは信じられないほどの飛躍的成長を遂げ、伝説的な来日公演の後、ついにライブ活動を停止してしまう。

The Beatles:Rubber Soul

初めて全曲オリジナルで仕上げたアルバム。4人がそれぞれの個性を活かし、思う存分主張しながら、しかも4人のバランスがこれほどまでにとれている、一切「嘘のない」The Beatlesがここにある。まさにピンの実力を持つ4人がそれぞれの力量(”In My Life”における間奏のピアノを弾くGeorge Martinの存在も無視できない)を発揮しながらかつ調和し、共生しているのである。美しい、そしてかっこいい。

ところで、2曲目”Norwegian Wood(This Bird Has Flown)”はいつ聴いても最高だ。Georgeの奏でるシタールの音が郷愁を誘う・・・。久しぶりのThe Beatlesに・・・、涙が出る・・・。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
岡本さんの音楽体験談、毎回楽しく拝読しています。そうですよね、音楽は、究極的には各人の人生と密接に結びついていますよね。
話は変わるのですが、ここ1年くらいの、季刊「ステレオサウンド」や、HMVサイト内での許光俊さんの連載が滅法面白いです。彼の音楽評論については、私より年下で楽器経験もないのに糞生意気だ、お前に何がわかる!と反発を感じていたのですが、最近の論調については一皮剥けたんじゃないかと思い(私の側もそうかな・・・笑)共感することが多いです。特に真理の核心をついていて秀逸だと思ったのはHMVサイト内、《連載 許光俊の言いたい放題 第175回「人生と音楽」》の中の一節でした。
・・・・・・音楽抜きの人生はあり得ないと考えている人も多いだろうが、逆に、人生抜きの音楽もあり得ない。どんな音楽であれ、人生とまったく無縁に生まれるものではないし、聴かれるものでもない。
 私はもう20年以上も音楽評論を書いてきたけれど、既存の評論家、あるいは新しく登場した音楽評論家、それに音楽ライターなるもののほとんどがそのあたりに口をつぐんでいることに不満を感じてきた(これは別に日本に限ったことではない)。「自分はこういう人間」というのを棚上げして、他人の音楽をどうこう言うのが、何とも狡い気がしてならないのである。極端な仮定かもしれないが、極貧だからこそわかる音楽(の聴き方)があるだろうし、贅沢三昧していないとわからない音楽もあるだろう。童貞、処女でなければ感動できない音楽、頽廃の果てに魅力を感じる音楽だってあるに違いない。だが、こうしたことにいっさい関わりなく、まるで拾ってきたきれいな石を褒めるような感じで綴られてしまう評論がほとんどなのだ。しかし本来、美について論じるということは、突き詰めるほどに、「それを美しいと感じる自分」を論じることと切り離せないはずである。なぜなら美は物理的特性などではなく、非常に主観的なものなのだから。・・・・・・
http://www.hmv.co.jp/news/article/1003190132/
私が漠然と思っていたことを、そのものズバリじつに的確な言葉でおっしゃっていて、驚きました。私は以前から、匿名ブログや匿名コメント(当然私のここでのコメントも含む)でのクラシック音楽評論に強いモヤモヤというか違和感を持っていたのですが、その理由も明確に理解できました。
別な回、次のような言葉もありました。
・・・・・・ところで、2009年に私がもっとも感激したコンサートは、何とこともあろうにベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団(本拠地での演奏)だった。ハイティンクは今までまったく興味がないどころか、嫌な思い出しかない指揮者。ロンドン交響楽団も、決して好きではないオーケストラ。にもかかわらず、呆然とするほかないような音楽を聴かされたのだ。何しろ、「あ! 天国が見えた!」とまで思ったのだから。コンサートは行ってみないとわからないのである。
 いよいよ最晩年にさしかかったハイティンク、チケットの高さが話題になったシカゴ響との来日公演には行かなかったけれど、もしかしたらできるだけ聴いておくべきかも。詳しいことは、別の機会に記そう。
 幸い、ロンドン響との録音があれこれ出るようだ。心して聴いてみようと思っている。・・・・・・
http://www.hmv.co.jp/news/article/1001040040/
季刊「ステレオサウンド」の連載では、小澤征爾の最近の実演にも感動・感心した体験に触れておられましたし、あの原理主義者の許光俊氏がマジかよ?っていう気もしますが、それは人間としての確かな成長の証なんだと、今の私なら信じられます。
The Beatlesの音楽は変わらない。変わるのはThe Beatlesの音楽と私との、関係の質である・・・ですか?(笑)

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
許光俊氏の言葉、深いですね。まさに音楽(を聴くという行為)はその人の人生と密接にリンクしてますよね。
ハイティンクについての文章は僕も前に読んで吃驚しました。
>反発を感じていたのですが、最近の論調については一皮剥けたんじゃないかと思い(私の側もそうかな・・・笑)共感することが多いです。
>変わるのはThe Beatlesの音楽と私との、関係の質である
もうそのとおりだと思います(笑)。聴く側の感覚や知識が変わるだけでこうも違うものなのかと思います。雅之さんも随分変わられたんじゃないですか?!
いつか雅之さんの「音楽と人生」についても聴いてみたくなりました。

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