自由って何だろう?

sarah_vaughan_crazy_and_mixed_up.jpg「自由に振舞ってください」という指示を出すと、大抵の人は戸惑ってしまう。居心地の悪さとともに時間が過ぎ去る。人は誰でも「自由になりたい」と思いながら、いざ自由になると、どうしていいかわからなくなってしまうものだ。

僕は考えた。「自由」って何だろう?

自分が思ったこと、考えたことを好きなように行動できること。誰にも規制されることなく、ただ感じたままやりたいようにすること、なんだろうが、じゃあ、好きなようにするってどういうことなんだろう?そんなことを考えているといつまで経っても答は出てきそうにない。

最近思う。「自由」というのは人と人とが心からつながったときに生まれるものなのではないかと。魂と魂が触れ合うくらい、深いところで交われば、喜びや解放感に満ち溢れる。それこそが本当の「自由」だと思うのだ。やっぱり他への意識をいかに醸成するかがポイントだ。

今朝、知識君のブログを読んでいて、子安さんという方のブログ記事が紹介されていた。飲食店のプロデュースを生業にされている方のようだが、とても勉強になることが書いてあった。飲食店が流行る条件として2つあり、そのひとつが「サード・プレイス」としての機能だというのである。なるほど、これは飲食店に限ったことではない。世知辛い今の世の中で、人は誰しも素の自分を取り戻し、人とつながりたいと願っている。これはまさに「ワークショップZERO」が目指すものと同じである(エルーデ・サロンも「素の自分を取り戻すことができ、人と真につながることのできる場」として機能させるといいだろう)。

そういえば、知識君の先日の記事で、未知の音盤が相当数紹介されており、まだまだ僕も知らないことだらけで、いろいろと勉強させていただかなきゃいけないなと謙虚に感謝の念を持った。久しぶりにBryan Ferryでもと思ったが、いやいや、こういう雨の日にはSarah Vaughanが似合うだろうと、取り出した。

Sarah Vaughan:Crazy and Mixed Up(1982.3.1&2録音)

Personnel
Sarah Vaughan(vo)
Joe Pass(guitar)
Roland Hanna(p)
Andy Simpkins(b)
Harold Jones(ds)

サラ・ヴォーン没して20年。彼女の声は自由自在で味がある。Jazzのインプロヴィゼーションのポイントは「いかに自由になれるか」だと僕は思う。黒人のソウルが原点となるこのジャンルの源泉は、やはり人間対人間の魂と魂、心と心の触れ合い、いかにつながるかが心に訴えかける名演になるか否かの鍵だと思うのだ。装いはかっこう良く、しかも中身も深い。熟練の歌唱は永遠なり。

6 COMMENTS

雅之

おはようございます。
私の考える「自由」とは、一切の経済原則、経済的制約から脱出することです。
>「自由」というのは人と人とが心からつながったときに生まれる
そのとおりかもしれませんが、そこに自分の儲けとか打算とかの思惑が少しでも入ると、自他ともに喜びや満足は得られるかもしれないですけれど、それは自分にとっての真の「自由」とは、少し違います。
有名な話で譬えれば、サラ・ヴォーンは、J.S.バッハのメヌエット ト長調 BWV Anh.114
http://www.youtube.com/watch?v=2MNu3Jdlkn4
をポップス化した、A Lover’s concerto
http://www.youtube.com/watch?v=KahAPQ9sl6g
でヒットを飛ばしましたが、それは、おそらく彼女が本当に歌いたかった歌ではないですよね。
昨日話題にしました、吉松先生の、
〈そこにはちゃんとした「音楽への需要」があり、経済的にも機能する〉
〈自分勝手さを「芸術」と言い張るような逃げや甘えは通用しない。こちらの方が本当の「プロ」の世界と言うべきだろう〉
という言葉とは矛盾しますが、私は一切の経済的制約から「逃げ」「甘え」、人からどう見られようが、思うがままに自分の好きなことだけをやり、なおかつ人のお役にも立つ、そんな「自分勝手な自由」を、いつか手に入れるのが夢です。
社会的責任のある、いい大人が吐く言葉ではありませんね(笑)。
でも、例えば、広告や有料サービスなどが一切無く、運営に必要な資金は寄付によってまかない、執筆や編集は世界中の無償のボランティアの手によって行なわれている、利用者が自由に執筆できるインターネット上のフリー百科事典「Wikipedia」などは、私がいつか手に入れたい「自由」に似た、ひとつの理想像ではあります。わがままですね(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>私の考える「自由」とは、一切の経済原則、経済的制約から脱出することです。
これはもうほんとにそうですよね。おっしゃるとおりです。
「お金のいらない国」(確か4巻まで出ていると思います)って読まれたことありますか?
http://www.amazon.co.jp/dp/4902306166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1273621289&sr=8-1
ここに理想があると思います。
そもそもこの現実世界は修行のようなものですから、身体の縛りや経済的な縛りの中で「いかに本当の自由を獲得するか?」が課題だと思います(ただし、ここで僕が言う「自由」とは一般的に想像される「自由」とは少しニュアンスが違うのですが。物理的自由というより、魂の自由を指します。いやこの言い方でも少し伝わりにくいですかね・・・)。
雅之さんのおっしゃる
「一切の経済的制約から「逃げ」「甘え」、人からどう見られようが、思うがままに自分の好きなことだけをやり、なおかつ人のお役にも立つ、そんな「自分勝手な自由」」は、
人のお役に立つのですから、厳密には「自分勝手」ではないと思います。
いつかそういう世の中(お金のいらない世の中)になるといいですよね。

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EBJ

 岡本さん、こんばんは。
 「自由ほど厳しいものはない。」と言う人がいるほど、「自由」で在ることは、実は難しいことだと思っています。この点、岡本さんの書かれていることを読んで気付きがあったのですが、「他者」が存在しなければ、「自由」という概念自体が存在しないのだと思います。「他者」とは、ある意味、「束縛」の象徴のような面があると思いますが、この世に自分ひとりしかいないとするならば、「自由」もへったくれもないですよね。一方、「他者」がいるからこそ、その他者との関係性において、他者と円滑な意思疎通ができ、自己実現ができる、言い換えれば、お互いに受け容れ合うことができるならば、その状態こそ「自由」のような気がします。
 仕事を例にとりますと、私は「自由業」ですが、クライアントがいてこそ自由業が成り立ちます。クライアントがひとつもないのに「自分は自由業だ。」と言ってみたところで、当の本人は「自由」な状態を享受することはできないと思います。組織に所属していないという意味では「自由」かもしれませんが、クライアントがいなくて、人の役にも立てず、生活していく収入もなければ、心は「自由」ではないと思います。
 このように「自由」を解釈してみると、「自由」で在ることは、なかなか大変ですね。しかし一方で、非常にやりがいがありますね。

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岡本 浩和

>EBJさん
おはようございます。
コメントありがとうございます。
>「他者」が存在しなければ、「自由」という概念自体が存在しないのだと思います。
>お互いに受け容れ合うことができるならば、その状態こそ「自由」のような気がします。
おっしゃるとおりです。まさに互いが受け入れ合いつながったときに「自由」が生まれると思います。
>「自由」で在ることは、なかなか大変ですね。しかし一方で、非常にやりがいがありますね。
同感です。そういうことが「わかって」生活するのとしないのとでは大きな違いがあると思います。人間は誰しも真の「自由」を求めて生きており、だからこそ他との関係性に注意を払ってひとつになることが重要なんだとあらためて僕も思いました。
ありがとうございます。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
そういえば、ハイドシェックの引用、思い出しました。
ありがとうございます。
「限定がなければ自由もない」というストラヴィンスキーの言葉、いいですねぇ。

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