希望

hancock_corea_in_concert.jpgLPレコードの匂い。30年前なけなしのおこずかいを片手に入念に選択し、ようやく購入したアナログ・レコードを大判のジャケットから出し、さらに半透明の内袋から取り出した時にプーンと匂う、あの何とも言えない匂いを時々思い出す。それは輸入盤にはなく、不思議に国内盤でしか味わえなく、塩ビ素材特有の、そしておそらく国内の大手印刷会社が印刷したであろうジャケットの紙の匂いが混じり合ったようなもので、これからまだ知らぬ音楽作品をようやく耳にできるんだという期待と興奮とが錯綜する、そんな気持ちにさせてくれる特別な「匂い」だったと記憶する。

ここ数日の、 フランツ・リストの話題に始まり、その即興性が現代のジャズやロック・ミュージックにつながるだろうという考察から、20年前に購入したハービー・ハン コックとチック・コリアのデュオによるピアノ・コンサートのCDを聴いてみた。まだCBSソニーと名乗っていたあの頃の、国内盤の2枚組CDにはもちろん ブックレットも付いており、ケースを開けた時の匂いが、例のアナログ・レコードの匂いに通じるもので、ティーンエイジャーのあの頃の、どんな音楽にも好奇 心を抱き、熱心に、一直線に聴き込んでいた懐かしい時代を彷彿とさせる。
音楽自体の力はもちろんのこと、その作品(レコードやCDそのものも含め)の形や匂いや、あるいはジャケットの絵や、そんなものまでにも、過去を呼び覚ます力があるのだということをあらためて感じた。

Herbie Hancock & Chick Corea:In Concert(1978.2)

Personnel
Herbie Hancock(p)
Chick Corea(p)

1978年のアメリカ主要都市でのツアーからの編集盤。2人の若き偉大なジャズ・ピアニストがまるで目の前で時に寄り添い、時にバトルをしながら繰り広げるプレイは、それこそ19世紀中ごろに、ヴィルトゥオーソ・ピアニストとして一世を風靡したフランツ・リストのその演奏に近いものではなかったのか(1833年12月15日に、ヒラー、ショパンとともに奏したバッハの3台ピアノのための協奏曲などは壮絶なものだったろう)。同時に収録されている曲間の聴衆の熱狂的な叫び、拍手喝采・・・。現代クラシック・コンサートでは絶対に体験できない、いや、ひょっとするとジャズ・コンサートの中でも特別な会だったのではないかと思われるほどの、特別なエネルギーまでが感じとれる。
ハービーの「処女航海」が、チックの「ラ・フィエスタ」が、また新たなアレンジで奏される時、繰り返し何度も彼らの演奏を聴きたいと思わせ、そして次はどんな演奏が繰り広げられるのだろうという期待を抱かせてくれる。希望に満ち溢れた最高のコンサート体験。文字通り一期一会のひととき。音楽を聴く喜びがここにある。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ご紹介の盤、真剣に聴き直してみます。ますますジャズの魅力に開眼しそうです(笑)。
リストの魅力が充分に伝わらず、彼のピアノ曲を、ショパン、シューマン、ブラームスより一段低いものとしか聴き手が感じることができないとすれば、コトコチの楽譜至上主義に陥った、現代のクラシックの演奏家の責任が大きいのではないでしょうか?
一体、いつからクラシック音楽界では、楽譜に忠実なのが第一で、アドリブは邪道になってしまったのでしょう。20世紀に音楽の本流は、むしろジャズ~ロックが引き継いでいたと痛感します。
・・・・・・ジャズはパフォーマンスアートだから、出たとこ勝負の一発芸的な偶然で評価を得ることがないとはいえない。でも、その評価を継続するために、または次の一発芸的な偶然の確率を高くするために、高度な技術と理論が要求される。
 一発芸すなわち「アドリブ(自由演奏)」が、「めちゃくちゃ」や「でたらめ」に近いところにいるにもかかわらずそうならないのは、技術と理論の支えがあってこそ。
 アドリブというのは、実はジャズの専売特許じゃなかった。すでに15~16世紀のヨーロッパでは、ルネサンス様式の勃興によって音楽も(モノフォニー)から多声性のもの(ポリフォニーやホモフォニーなど)へ移行し、複数の旋律を組み合わせる表現方法が一般的になっていた。
 バロック音楽(16世紀末~18世紀前半)における変奏曲では、ひとつの旋律を変化させて曲にしていく方法が完成されていた。協奏曲では、主旋律楽器に対する副旋律楽器の動きなどに法則性が与えられた。こうした音楽的な理論が、ジャズにも流れ込んでいることは確かなのだ。
 バロック音楽を代表するヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)の時代、宮廷や教会に仕えてオルガンを弾くことが主な仕事だった。そしてその仕事は、半時間以上も即興演奏を行うというような〝競争〟を勝ち抜いた演奏者に与えられる、というシステムができあがっていた。それくらい、即興は音楽にとって重要視される存在になっていた。
 ジャズは、この即興演奏を〝目玉〟にして発達した。・・・・・・富澤えいち著「ジャズを読む事典」(NHK出版 生活人新書)17~18ページより
即興演奏の技術が極めて重視されるのは、チェンバロもそうですよね。
http://ashizuka-onken.jp/chembalonoomoide.htm
因みに、アドリブでは、表現のありとあらゆる手段が要求されるため、もともと民族楽器の流れを受け継ぐヴァイオリンなど弦楽器では、楽器の特性上からいっても、バロック以前から、当然ビブラートもポルタメントも使用していたというのが、良識のあるクラシック好きの皆様の常識を覆す、大胆な私の仮説なのです(笑)。
今朝は、ご存じかとは思いますが、フルトヴェングラーについて大変な示唆を受け大いに学ばせていただいる、山岸さんのサイトもご紹介しておきます。あまりにも感銘を受けた文章ですので改めて読んでいただきたく、引用します。
http://classic.music.coocan.jp/wf/index.htm
より。
フルトヴェングラーの芸術
 フルトヴェングラーの演奏の特徴は、音楽評論家・水戸芸術館長の吉田秀和氏の言葉を借りると、 「濃厚な官能性と、それから高い精神性と、その両方が一つにとけあった魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだという点」( 世界の指揮者」) にある。
 ここで音楽の演奏の歴史をふりかえってみると、19世紀ロマン主義の時代には、演奏家はテンポ・ルバートを駆使して“くずした”演奏をしていた、とされている。こうした風潮に対して今世紀初頭に新即物主義という流派が出現して、いわゆる“楽譜に忠実な”演奏というのが流行するようになった。その旗頭がアルトゥーロ・トスカニーニである。そして若いカラヤンが彼から影響を受け、戦後の主流派、というより「帝王」として音楽界に君臨するようになってからは、個性ある指揮者などどこを捜してもいなくなってしまったのである。
 こうした歴史の中でフルトヴェングラーは、ちょっと聴いただけではくずし派の代表格のように感じられるかもしれないが、それはまちがいである。彼はそのどちらに対しても軽蔑の念を抱いていた。
 彼の考えによれば、演奏家は、作曲家がその深層心理の「混沌」を「形象化」していく作曲の過程を追体験しなければならない。だから「楽譜に忠実」というのは演奏家の最終目的ではなく、あたりまえの前提条件であるにすぎない。そして楽譜というものは、作曲家の創造の成果を書き記すには、あまりにも不完全なものである。
 彼は、このように考えそして演奏した。その彼の演奏は、あたかも作曲家自身の即興演奏のごときものであった。このことは残された録音の悪いレコードからも十分に察することができる。
彼はまた、何小節も隔たった音と音との連関を感じつつ、大きな音楽をつくることができた。彼はハインリヒ・シェンカーという音楽学者の「原旋律」の理論に共鳴し、それを演奏において実現したのである。だから、彼の演奏はテンポの変化がものすごく顕著であるにもかかわらず、その移行部には自然さが感じられる。彼は「推移の達人」と呼ばれていたが、これはもともとはヴァーグナーに対して言われていた言葉である。フルトヴェングラーのくずしが他の人のそれとは違って、決してぜい肉とは感じない理由は、その読みの深さにあるのである。
 彼はこのようにしてドラマティックな演奏を実現できたわけであるが、もう1つの彼の特徴である「精神性」とは何なのであろうか。「官能性」と「精神性」とは普通ならば矛盾の関係にあるはずの言葉である。 これについてはいろいろな人のフルトヴェングラーに関する発言を引用して、拙文のしめくくりとする。
官能性ばかりでなく、その他さまざまな要素を、時には危うさを感じさせるほどにも展開増殖させながら、結局のところ、それらをある全体のなかであるべきところにしっかりとつなぎとめる能力、精神的とは、つまりこういう能力が、どのような昂揚状態のなかにあっても、正常に行使されていることをさす。・・・・文芸評論家・粟津則雄
現象論で垂直圧力とよぶもの、すなわち今の瞬間にわれわれにはたらきかけているすべての因子の総体に対する感受性を発達させていた最初で最後の人であった。また、この垂直圧力を水平圧力、すなわち今も作用しているが今はまだ現れていないすべての因子の総体に関連づけて感じ取っていたただひとりの人でもあった。
 この2つの次元が融けあって1つになるときのこの関係こそ音楽である。人間の精神は「一」としか関われないからである。人間の精神はその「一」をすばやく超越して次の「一」に行く。最初の「一」から解放され自由になって次の「一」へ向かう。フルトヴェングラーはこういうことのできた唯一の人であった。・・・・指揮者セルジュ・チェリビダッケ 「フルトヴェングラーを讃えて」所収

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>一体、いつからクラシック音楽界では、楽譜に忠実なのが第一で、アドリブは邪道になってしまったのでしょう。20世紀に音楽の本流は、むしろジャズ~ロックが引き継いでいたと痛感します。
同感です。クラヲタ一直線の若い頃、いわゆるポピュラー音楽を馬鹿にしていた時期がありましたが、お恥ずかしい限りです。雅之さんにコメントをいただくようになって3年近くになりますが、こういう有意義な展開になるとは夢にも思っていませんでした(笑)。旧ブログの記事を少しずつ移行させる作業をしながら当初どんなやりとりをしていたのか見てみると、今とは全く違った観点のものもあり、感慨深いものがあります。
「フルトヴェングラーの芸術」という記事、素晴らしいですよね。そういうことだったのか!!と膝を打ちます。最後のチェリビダッケの言葉が特に心を捉えます。
ありがとうございます。

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