ピンと共生

wagner_klemperer_po.jpg「新しいこと」を始めるには早い方が良い。と同時に、どうせやるなら迅速に、である。
革新的な人間の思考は、なかなか一般的に認められないというのが世の常。それでもめげずに自身の「軸」、「ベクトル」を信じて動く者には、いうなれば「神の恩寵」がついている(気がする)。
会社を設立して今日で丸1年になる。世の中の不景気加減と連動しているかのように、なかなか大変な1年だった(苦笑)。とはいえ、未来は常に明るいと信じている僕にとっては、多少の「壁」や「苦悩」がないと成長度合いが軽減するので、ひょっとすると今ぐらいがちょうどいいのかもしれないとも思えている。
新たな1年に向けて、イメージがどんどん拡がる。成功するも失敗するも自分の「意思」と「イメージ」次第。現実的にしっかりと地に足をつけて先を見据えながら着実に歩を進めていけば大丈夫だろう。たとえ「牛歩」であれ、一歩一歩である。
僕が考える「これからの未来を担う人材像」は、ピンで生きていけるスキルセット及びマインドセットを持ちながら、組織の中でもチームワークを重視し、「共生」できるという人である。「ピン」と「共生」とは一見矛盾しているように見えるが、実は表裏一体。というのも、人間はいつまで経っても完璧にはなれない存在であり、互いに補填し合いながらひとつのものを完成していくものだと思うからだ。その人間関係の中に、成長の種があり、また「ひとつになる」醍醐味があるのである。

それは、しいて言うならサイトウ・キネン・オーケストラだろうか・・・。各々がソリストとして活躍できる力量を持ちながら、アンサンブルとしても最強のパフォーマンスを創出する。

そんなことを考えながら、ついついワーグナーを連想してしまった。そう、変人ワーグナーである。彼は、特に若い頃、非常に独善的な人間だったようである。しかしながら、壮大な楽劇の創作を通じながら、歳を追うごとに成長した。「共苦」をモチーフにした最後の作品である舞台神聖祝典劇「パルジファル」などはもう神々しいばかりで、いつ何時聴いても心底感動を享受できる、そんな傑作である。そのワーグナー作品を粘っこくも手堅く再創造した指揮者がオットー・クレンペラー。

ワーグナー:管弦楽曲集
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

昨日は1枚目を、そして今日は2枚目を集中的に聴いた。「ジークフリート牧歌」の真に牧歌然とした、緩やかでほのぼのとした感覚が新しい。「神々の黄昏」からの『ジークフリートのラインへの旅』、そして『葬送行進曲』も感動的である。「マイスタージンガー」前奏曲も「ローエングリン」前奏曲も一種神業。

クレンペラーの音楽は決して若者向きでない(と思う)。歳をとるほどに味わい深くなる。そういう意味では、噛めば噛むほど味わい深くなる「スルメ」のようだ。

「スルメ」のような、そう、本物の人間になりたい。

3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>各々がソリストとして活躍できる力量を持ちながら、アンサンブルとしても最強のパフォーマンスを創出する。
私はオーケストラと、野球、サッカーなどの団体競技、会社などの組織は共通点だらけだなあと思っていましたので、一昨年だったか、クレンペラーへ想いを語らせたら右に出る者がない音楽評論家、吉井亜彦さんの著作の協奏曲について書かれた下にご紹介する部分を読み、「まさにそのとおり!」と膝を打ち共感しました。
・・・・・・あらためて指摘するまでもなく、協奏曲とは、独奏者という「個」と、オーケストラという「集団」との競いあい、調和といったデリケートな関係の上に成り立っている。個は個人、集団は一般社会と見なしてもよいような側面もないではない。個は社会に対し、ときに強い自己主張をしなければならないだろうし、ときに自らを抑制してでも他と協調していかねばならないこともある。烈しい議論をふっかけなければならない時もあれば、相手の意見をよくきかねばならないときもある。そのあたりの力関係とでもいうか、かけひきのようなものがうまくおこなわれないと、協奏曲の真のおもしろさはなかなか機能しない。最近の主に若い演奏家たち(と、あまりに大雑把に一般化しては危険なのだけれど――)は、どうしてもこうした呼吸のようなものが上手ではないようだ。自分のことを主張するときは主張するだけ、相手に従うとなると無闇に従うだけ、ということが多すぎる。自らの視野のなかに相手がいて、相手の視野のなかにも自分がいるという意識をもつことに長じていない。無器用といえば無器用で、どこか頑なである。これでは協奏曲の醍醐味は容易に照射できない。こうした傾向は、なにも音楽の演奏家だけに限ったことではなく、現代の多くのひとびと、現代の文化の多くの面で、共通して看取しうることである。こうしたことは、大いに問題とすべき要素といえよう。
(中略)
・・・・・・協奏曲とはある意味で「個人」と「集団」とからなる社会学的なおもしろさもあわせ持っている。個人は社会に対してなにが可能なのか、そして、なにが不可能なのか、さらに、社会は個人に対してどうあるべきなのかなど、切実な問題は尽きない。現代社会が多様化し、複雑になればなるほど、こうした問題は避けられないものとなってくることだろう。その際、「独奏協奏曲」のかかえ込む難問をのり越えたり、ときには凝視するものとして「合奏協奏曲」(コンチェルト・グロッソ)のことを考えてみるのも興味深いかもしれない。・・・・・・「名盤鑑定百科 協奏曲篇」(春秋社)『はじめに』より
http://www.amazon.co.jp/%E5%90%8D%E7%9B%A4%E9%91%91%E5%AE%9A%E7%99%BE%E7%A7%91-%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AF%87-%E5%90%89%E4%BA%95-%E4%BA%9C%E5%BD%A6/dp/4393934725/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1267562294&sr=1-1
>クレンペラーの音楽は決して若者向きでない(と思う)。歳をとるほどに味わい深くなる。そういう意味では、噛めば噛むほど味わい深くなる「スルメ」のようだ。
まったく同感です、上手いことおっしゃいます! 下の演奏もその典型だと思います。ワーグナーにしろベートーヴェンにしろ、指揮者のこんな巨大な存在感と演奏の深い味わい、今はすっかりなくなりましたね。
Beethoven Symphony No.7-Mov.4 Klemperer & Philharmonia
http://www.youtube.com/watch#v=uNjxELUSMZo&feature=related
>「スルメ」のような、そう、本物の人間になりたい。
素晴らしい志です!!

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雅之

訂正
×どうしてもこうした呼吸のようなものが上手ではないようだ。
○どうもこうした呼吸のようなものが上手ではないようだ。
転記ミスです。申し訳ありません。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
吉井氏の文章は的を射ていて素晴らしいですね。
>「独奏協奏曲」のかかえ込む難問をのり越えたり、ときには凝視するものとして「合奏協奏曲」(コンチェルト・グロッソ)のことを考えてみるのも興味深いかもしれない。
特に、この件、「なるほど!」と思いました。
僕が考える、ひとりひとりがピンで独立しながらも共生するというスタイルはまさに「コンチェルト・グロッソ」に近いかもしれません。
クレンペラーのベートーヴェンの7番は本当に深いです。感動的です。しかしながら、そういう僕も若い頃はこの演奏の良さがまったくわかりませんでした。いつまで経ってもスピード・アップしない鈍行列車に乗っているようで、イライラしたものです。
久しぶりにこの映像も観ましたが、歳をとるにつれしみじみと味わい深さが手に取るようにわかります。最高です。

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