ブーニンのモーツァルト ロンドK.511ほか(1991.2録音)を聴いて思ふ

純粋無垢の童心。
10歳の頃の小品にも、最晩年の経済的苦境の中にありながら一切の悲哀を見せない可憐な小さなソナタにも、いかにも彼らしい人生を謳歌する遊びの精神と、無邪気な、駄々をこねるような愛らしさが混在する。四半世紀近くの時を刻むも、その人の心そのものは何も変わることがない。
創造物には「ありのまま」が投影されるのだろう。誤魔化しなど効かないのだ。

スタニスラフ・ブーニンの演奏から遠ざかって久しい。
現在の彼について僕は何も知らない。
しかし、少なくとも30年近く前に聴いた、バッハやモーツァルトは奇を衒わない、正統なとても美しい演奏だった。

中でも、没後200年のモーツァルト・イヤーに満を持して録音されたブーニンの、モーツァルトの可憐な小品を集めたアルバムは、隅から隅まで神童に対する尊敬の念が映える傑作だ。

モーツァルト:
・ピアノのための小品ヘ長調K.33B
・8つのメヌエットK.315g
・ロンドニ長調K.485
・ロンドイ短調K.511
・ピアノ・ソナタ第15番ハ長調K.545
・アレグレットによる12の変奏曲変ロ長調K.500
・幻想曲ニ短調K.397
・ピアノ・ソナタ第17番ニ長調K.576
・トルコ行進曲~ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331
スタニスラフ・ブーニン(ピアノ)(1991.2.5-7録音)

清廉という言葉が相応しいのかどうかわからないが、ブーニンのモーツァルトにはまるで邪気がない。ただひたすら音楽に向う姿勢が実に神々しい。いみじくもピアニストは語る。

このCDの標題も、当初は“子供のためのモーツァルト”とする予定でおりました。しかし、録音が終了した段階で、このプログラムを何か特定の標題で色づけするのは間違いではないかと気づいたのです。なぜなら、モーツァルトの音楽には、人間の意識に対しその全生涯にわたって働きかける奥深い意味が隠されており、しかも、天才モーツァルトの小品に込められた汲めども尽きぬファンタジーと多様性は、年齢にかかわりなく聴き手を期待どおりに、あるいは思いもかけず魅惑する力を持っているからです。
(スタニスラフ・ブーニン/高塚昌彦訳「このアルバムに寄せて」)

人生を悟りきった老練の悲しみを纏うロンドイ短調K.511(1787年3月11日完成)の内なる素直さ。モーツァルトの魂は、間違いなくこの数ヶ月後の父レオポルトの死をわかっていたのかもしれない。厳格な父の呪縛から逃れようとする自由と、それでも父を敬愛するせいか、自身への戒めが錯綜する音調の、人間離れした崇高さ。傑作だと思う。
あるいは、幻想曲ニ短調K.397に垣間見られる柔和で優しい音。

今や僕たちに必要とされるのは、それこそ地に足の着いた「ファンタジーと多様性」ではないか。それにしても、最後のソナタの透明感はいかばかりか。

 

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