朝比奈隆指揮大阪フィルのヴォルフ=フェラーリ「マドンナの宝石」ほか(1973録音)を聴いて思ふ

1970年代は、僕の小学校から中学校にかけての時代をすっぽり包み込む。
三島由紀夫の自決のニュースの記憶は残念ながらない。あさま山荘事件については辛うじて頭の隅っこに映像が残っているくらい。しかし、たぶん小学校3年生くらいだったか、父の本棚に「三島事件」や「連合赤軍事件」に関する週刊誌の特集号がいくつか並んでいたことははっきりと覚えているので、子どもながらにとても強烈な印象を持ったのだろうことは確かだ。

天真爛漫だったと思う。
ただ、世の不穏な出来事についてはやっぱり恐怖心を煽られた。
子どもでいて子どもでない大人びた感覚はどこかにあったのかもしれない。
あれから45年近くが経過する。

朝比奈隆があの頃録音した管弦楽名曲集。時代の空気感を忘れることはない。
日本のオーケストラがまだまだ今ほど洗練されていなかったであろう時代。
しかしながら、音符のひとつひとつを懸命に音化しようとする姿勢が感じとれる演奏に不思議な感動を覚える。

・ヴォルフ=フェラーリ:歌劇「マドンナの宝石」より第2幕の間奏曲
・ウェーバー:「舞踏への勧誘」作品65(エクトル・ベルリオーズ編曲)
・ブラームス:ハンガリー舞曲第1番ト短調
・ブラームス:ハンガリー舞曲第5番ト短調(シュメリング編)
・ブラームス:ハンガリー舞曲第6番ニ長調(シュメリング編)
・ハチャトゥリアン:バレエ組曲「ガイーヌ」より「剣の舞」
・スッペ:喜歌劇「軽騎兵」序曲
・ヨハン・シュトラウスⅡ:ワルツ「春の声」作品410
・チャイコフスキー:アンダンテ・カンタービレ
・シューマン:トロイメライ(八田耕治編)
・メンデルスゾーン:劇付随音楽「真夏の夜の夢」より「結婚行進曲」
・ローサス:ワルツ「波濤をこえて」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1973録音)

難しいことを抜きにして、古今の名曲にひたすら耳を傾けると懐かしい旋律に魂が震える。
「マドンナの宝石」間奏曲の美しさ、あるいは「軽騎兵」序曲の誰もが知るであろう軽快で雄渾な旋律に心躍る。「春の声」は朗々と、そして「アンダンテ・カンタービレ」は哀愁をもって、地域や言語を超え僕たちの心に届く。
繰り返し無意識に聴いてきた音楽は、時間と空間を超えいつも優しい。

音楽の世界では理解すること、演奏すること、鑑賞すること、この三つがあるわけです。この三つがないと音楽は機能しません。まず理解して、それから演奏する技術をもって、それを聴いてくださる方がいる。それで三位一体で、これで仕事が済むのですが、その能力にしても素晴らしいものだと思います。なにか非常に楽観的なことを言っているように、お聞きかもしれませんが、これも一番最初に申し上げたことにかかわり合いがあります。私が今、音楽と言っているものに関しては、思想、言語、肌の色、何も関係がなく共通のものだということです。これは素晴らしいことだと思います。
朝比奈隆「対話講座なにわ塾叢書5音楽と私―クラシック音楽の昨日と明日」(共同ブレーンセンター)P104-105

世界共通言語としての音楽。こういう考えをもって、日本でのクラシック音楽の裾野を広げることに尽力した朝比奈隆の晩年の音楽を幾度も聴けたことに今更ながら感謝したい。

 

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2 COMMENTS

雅之

「世界共通言語としての音楽」、当然、私はそこに疑問を持っているわけです。人々の間で何らかの共通認識がないと成立しないと。前にも言いましたが、雪を知らない国の人にシベリウスの曲が理解できるかといったように。

長調は明るく、短調は暗く悲しいという感性も、西洋音楽に洗脳されているからで、かつての日本では必ずしもそうではありませんでした。「うれしいひな祭り」のように。

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岡本 浩和

>雅之様

西洋音楽の洗脳というのは確かですね。
そう考えると、やっぱり音楽も言語と変わらないですね・・・。
すべては人間が作った機能であって、そこに「世界共通」というのはあり得ないのかもしれません。
うーむ。

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