バレンボイム&クレンペラーのベートーヴェン協奏曲第1番ほか(1967録音)を聴いて思ふ

何と思わせぶりな!協奏曲第1番第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭、4つの連打音で構成される主題は、後の有名な交響曲第5番第1楽章アレグロ・コン・ブリオのモチーフと同じ方法。そういえば、ヴァイオリン協奏曲第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ冒頭もティンパニによる4つの連打音だ。
「4つの連打音」を軸に、ベートーヴェンの思考の内側を解明するのは面白いかも。

古きを温ねて新しきを知るというが、新しきを温ね、古きを知ることもまた良し。
過去と現代を結び合わせて新しいものを創造すること。

そう、ベートーヴェンは絶対音楽の作家だった、けれど彼の同時代でさえ、E・T・A・ホフマンが第5交響曲について有名な批評を書いている。1809年の初演から2年もたたないうちに発表されたものだ。ホフマンは、「ベートーヴェンの音楽は、テロや恐怖、戦慄、苦痛を誘発し、ロマンティシズムの本質である果てしのないあこがれを呼び起こす」と書いている。今の僕らから見れば純粋に19世紀的な用語で、彼はそれを記述している。したがって、それが絶対音楽を超えているということは、彼の時代にもすでに、ある程度は理解されていた。
アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P222

2000年12月14日の、ニューヨークでのバレンボイムとサイードとの対談の中で、アラ・グゼリミアンの発したこの言葉は、ベートーヴェンが見ていたもの、聴いていたものが人智を超えた、形而上に存在するもので、だからこそ永遠であり、不滅であることを示しているように思う。バレンボイムは言う。

僕は現代の音楽にすごく興味があり、魅せられている。カーターやブーレーズやバートウィスルのような作曲家に。とても重要なことだと思う。これらなしでは生きていく気がしないだろう。だが、僕にとってベートーヴェンは過去の作曲家ではない。ベートーヴェンは今の時代の作曲家ではない。彼は近代の作曲家だ。彼には、今日作曲されているものと比べて同等の重要性があるし、ときには勝っていさえする。思うに、もっとも肝心なことは、発見するという感覚で、あたかも、それが今書かれたかのように、ベートーヴェンを演奏する方法を見つけ出すこと、そしてブーレーズらによる新作についてじゅうぶんな理解をもつことだと思う、それによって、過去の作品に結びつけられているような親しみをもってそれらの作品を演奏することができる。
~同上書P225

何事においても世界を包括的に捉えることが大切だ。
バレンボイムの方法は、いかにも過去に縛られた前世紀の遺物ではないということだ。たぶん彼は、その点については現代作品にも精通し、多くの作品の初演に貢献したオットー・クレンペラーの影響を受けているのではないかと僕は思う。

クレンペラーの棒の下、若きバレンボイムが残したベートーヴェンの協奏曲集は、どれもが重厚でかつ色香に満ち、50年を経過した今も最右翼の逸品だ。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15(カデンツァ:バレンボイム)
・ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19(カデンツァ:ベートーヴェン)
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967.10-11録音)

堂々たる威容と、恐るべき集中力を示す名演奏。
作曲家クレンペラーの全体を大きくかつ正確に見据える俯瞰力と、巨匠の呼吸の深い大仰な表現に引けを取らないバレンボイムの確信に満ちたピアノががっぷり四つに組む様に言葉がない。ベートーヴェンはこの時からすでに彼にとって「過去の作曲家」ではないのだ。
第2楽章ラルゴの澄んだ哀しみ。オーケストラは歌い、ピアノが煌めく。

音楽についての明白な定義は、わたしにはたった一つしかない。フェルッチョ・ブゾーニの「音楽とは鳴り響く大気だ」というものだ。音楽について言われている他のことはすべて、音楽が人々にひき起こすさまざまな反応について語っている。詩的に感じられることもあろうし、官能的であったり、精神的であったり、情緒的であったり、形式が魅力的だったりするかもしれない。
~同上書P236

音楽とは自然体であらねばならない。

 

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