家族の絆

beethoven_guarneri_q.jpg人間の最小単位は「個人」ではなく「家族」である。両親の仲が良いこと、たとえ年に数回であっても家族で旅行なり外食なり、団欒の機会があること。楽しく面白く過ごせる環境が揃っていることで「絆」が深まる。そもそも子どもの立場からしてみても、深い「絆」があり、信頼関係があればグレようがない。多少の悪ふざけはしてみても一線を越えることができようはずもない。細かくリサーチしたわけではないが、昨今の親子の事件の裏には家族間の「絆」の深度の影響があるのではないだろうか。

土地柄にもよるだろうが、最近は中学生ともなると親が子どもに無関心で授業参観どころか学校行事に参加しないことが多いのだという。もちろん子どもが嫌がるということもあろうが、少なくとも12歳頃までは親子のコミュニケーションを重視して、たとえ多忙でも子どもと過ごす時間、子どもに興味を持つ時間を増やさないことには青少年にまつわる事件が減ることがないように思う。いずれにせよ「絆」が浅いことが問題の根源なのだ。それは何も家族に限ったことではない。友人同士、恋人、夫婦の中でも同じような現象がみられるのだから、いかに喜怒哀楽を共にし、ぶつかり合ったり共感しあったりということが大事かあらためて考えさせられる。

子どもが問題を起こす場合、それは親へのひとつの警告である。「もっとかまってほしい」、「寂しいんだ」というサインだともいえる。子は親の鏡。まずは大人が自身を振り返り、反省し、「振り」を変えていかねば何事も変わりようがない。明日の日本を心配するとき、未来の日本を担う子どもたちを心配するより、その親の世代である我々こそが心してかからねばなるまい。そんなことを65回目の終戦記念日に思った。

この休暇中、例によってほとんど音楽を聴くことがないが、東京を発つ際にスーツケースに放り込んでおいたベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を久しぶりに少しずつ聴いている。特に、初期のカルテット、作品18をじっくりと聴くのはいつ以来だろうか?繰り返し何度も聴くうちに、20代のベートーヴェンの「未来への希望」、というか「未来への野望」のようなものが身近に感じられて、遅ればせながら自分も明日の日本に希望をもちながら頑張ろうという気になる。そう、「やる気」を誘発する音楽なのだ。常に将来に向けてのエネルギッシュなパワーを与えてくれるところが楽聖の音楽の素晴らしさであり、拠りどころでもある。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲作品18(全6曲)
グァルネリ四重奏団

そういえば、話題にとても矛盾しているようだが、ベートーヴェンも「家族の絆」に飢えていた人間である。おそらく彼こそ最初のアスペルガー症候群的な人なのかもしれないが、幸運なことに神はベートーヴェンに途轍もない才能、つまり音楽の才能を与えた。しかも幼少時よりアルコール中毒だったという父親が徹底的にしごいたものだから、お蔭で何百年にもわたり時の音楽家に影響を与える作品をいくつも生み出した。そう考えると、子どもの性質、才能というのはある意味親の責任において開花させられるか否かということであり、いずれにせよグレるもグレないも「親のせい」だと言ってしまっても過言ではない。ちなみに、子どもの成長過程において小学校3,4年生あたりを「ゴールデン・エイジ」というらしい。その頃にのめり込んで時間を費やしていたことが後に花開く確率が高いのだと。イチロー然り、石川遼然り。彼らの才能を見逃さなかった親がやっぱり偉いということだろう。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

マーガレット・サッチャー
「社会などというものは存在しない。
あるのは個々の男と女、そして家族だ」

ジャック・ドロール
「個人は社会抜きに人格を完成し得ない。
個人が他人に貢献できるよう、社会が自己実現のための空間を提供すべきである」

教育勅語:現代口語訳(下サイトより)
http://kan-chan.stbbs.net/docs/chokugo.html
「私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。
 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています」
明治二十三年十月三十日
(天皇陛下の署名と印。)
皇室内の教育方針でさえ、教育勅語の精神から遠く乖離した平成22年8月、日本は今もなお、サッチャーがかつて表明した①の道の理想を具現化すべく邁進中です。
子供たちは大人になってもずっと、①の道を歩み続けるつもりなのでしょうか。我々愚かな大人の敷いた危ういレールの上を・・・。
終戦の日に、そんなことを考えました。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちわ。
以前もご紹介いただいた「教育勅語」の精神、現代の我々はいまいちど真摯に受け止めるべきですね。
確かにサッチャーのいうように、個々の男女と家族があるのみなのですが、その家族という単位の集合が社会である以上、社会というものが存在しないという考えについては疑問に感じます。
>個人は社会抜きに人格を完成し得ない。
個人の人格の形成は環境に左右されるものだと僕も思います。
であるゆえ、社会の最小単位である「家族」という環境をよりよくすることを大人が意識しなければならないのだと思うのです。

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