マリア・ジョアン・ピリス デュオ・リサイタル2018

信じられないが、これで正真正銘最後なのだと。
素晴らしかった。神々しかった。

父レオポルトの死と相前後して生み出された4手のソナタK.521。
「死」というものを、もはやこの頃には肯定的に捉えていた(フリーメイスンの影響か?)モーツァルトの辞書には哀しみという文字がなかったのか。
第1楽章アレグロ再現部から、俄然「音」が深みを増す。ピリスとグリゴリアンの対話は、そこに来て一層一体感を獲得する。晩年の、自然体のモーツァルトの、あまりに宇宙的な調べに、そして、それを見事に音化する二人のピアニストの技量に僕は言葉を失った。その様相は、内なる寂寥感を示す第2楽章アンダンテに引き継がれ、高音部を受け持つピリスの可憐ながら哲学的な音色に膝を打った。そして、天衣無縫のモーツァルト全開の終楽章アレグレットでは、可愛くも美しい主題が奏されるたびに魂が震えるのを覚えた。
死の淵を見つめ、内省するモーツァルトの本懐。
健康の不安を抱えながら、透徹したピアニズムを表出するピリスの雄姿。不覚にも涙が出そうになった。

今は最愛の敵にも望まれないような窮状にあります。あなたに見棄てられたら、私は不幸にも、かわいそうな病気の妻と子供もろとも、罪もないのに、破滅してしまいます。
(1789年7月12-15日付、プフベルク宛)
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P404

続いて、モーツァルトが最も経済的苦境にあった頃作曲されたソナタニ長調K.576を、リリット・グリゴリアンが弾いた。
舞台の後方で、ピリスは微動だにせず愛弟子のその姿を見つめていたのが印象的だった。
何という力強さ。冒頭、多少表面的なきらいを呈したが、音楽が進むにつれ意味を獲得していった。まるで、そこにはピリスが発する波動までが刻印されるような音楽だった。

マリア・ジョアン・ピリス デュオ・リサイタル2018
2018年4月26日(木)19時開演
浜離宮朝日ホール
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
リリット・グリゴリアン(ピアノ)
・モーツァルト:4手のためのピアノ・ソナタハ長調K.521
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番ニ長調K.576(グリゴリアン)
休憩
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330/300h(ピリス)
・シューベルト:4手のための「幻想曲」ヘ短調D940
~アンコール
・モーツァルト:4手のためのピアノ・ソナタハ長調K.19d

休憩をはさんで後半は、ピリス独奏によるモーツァルトのK.330から。今度はグリゴリアンが、舞台後方から静かに師の演奏を傾聴する姿が印象的だった。
もはやモーツァルトの「音楽」しか感じさせない、奇蹟の歌。DGの録音も素晴らしかったが、(おそらく最後の)今日の実演は、音の煌きと楽想の自然な流れにため息が出るほど。とりわけ第1楽章アレグロ・モデラートの愉悦と第2楽章アンダンテ・カンタービレの緩やかな癒しの対比が美しかった。

白眉は、当初のプログラム予定にはなかったシューベルト!!
まさに千載一遇。何とピリスによる4手「幻想曲」の実演が、この期に及んで聴けるとは夢にも思わなかったのでそれだけで感激。まして、最晩年の、死の直前のシューベルトの崇高な、人間技とは思えぬ透明な、また劇的な音楽に僕は終始魂の震えが止まらなかった。
第1部アレグロ・モルト・モデラートの歌謡的旋律の懐かしさ。第2部ラルゴの優しさと柔らかさ。しかしそれよりも、第3部アレグロ・ヴィヴァーチェの激しいうねりと爆発に卒倒し、続く第4部テンポ・プリモでの主題の回帰に思わず僕の心は熱くなった。
シューベルトは時間を永遠にする。ともすると冗長になりがちなシューベルトにあって、一切の無駄のない移ろいの妙。

さらに、スタンディング・オベイションと聴衆の熱狂的喝采に応え、奏されたアンコールは、少年モーツァルトの佳作K.19d。ここで、両者が入れ替わり、グリゴリアンが第1ピアノを、ピリスが第2ピアノを受け持ったが、混然一体となった音楽は、もはやモーツァルトそのものでしかなかった。マリア・ジョアン・ピリスの有終の美。

 

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