チャイコフスキー・マジック

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気分が晴れないときに聴くといいだろう、そういう音盤に出逢った。もともと作曲家が劇場の委嘱を受けたものの、気持ちが乗らないまま書き始めるやあっさりと楽想やアイデアが湧き出て、あっという間に完成したといわれるこの作品は、チャイコフスキーの生涯最高傑作ではないかと思うほどの出来栄えになった。
「僕は今とても疲れている。頭はからっぽで創作意欲もなく、作曲に少しも興味がわかない。こんな時オペラやバレエの作曲を引き受けても満足な仕事ができるのだろうか」
作曲家の頭の片隅には「孤独」という文字が明滅する。そんな状態の中でも万国共通語である音楽はそれを聴く者だけでなく、生み出す者の心をも癒してくれる。

何はともあれ、チャイコフスキーは帝室マリインスキー劇場の提案を受け入れることにする。そして、第1幕第2場の「雪片のワルツ」から音楽を書き始めるのだ。ラトル&ベルリン・フィルによるこの最新録音には、リベラが参加している。彼らの歌声が彼方から聴こえてくるだけでもう完全に参ってしまった。こんなに美しい音楽が世の中にあるのか、思わず思考を止めて聴き惚れてしまったほど。心身ともに疲れ切った中でこのような音楽を書けること自体がそもそも驚異。

結局、人は今もっているものでしか勝負できない。どんな状態であろうと、それまでの経験がものをいう。知識、そして知恵のすべてを出し切れば人に喜んでいただけるものが生み出せるということだ。

それにしても当時のチャイコフスキーの状況は大変なものだった。パトロネスであったフォン・メック夫人との別れ、そして同性愛者としての社会的批判による精神的苦痛・・・。

悲しい時に一層悲しくなる音楽を聴くことで、それらの感情は一気に浄化されるというが、「くるみ割り人形」のように、見かけはメルヘンチックで明るい印象を与える音楽にもかかわらず、実は内面に「心の叫び」、「慟哭」を秘めるような傑作を聴くと、一層精神的に楽になる。久しぶりに聴く「くるみ割り」の全曲を、不覚にも連続で3度も聴いてしまった・・・(その度にリベラの歌声が待ち遠しい)。面白いように心が落ち着き、気持ちが高揚する。チャイコフスキー・マジックなり。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>チャイコフスキーの生涯最高傑作ではないかと思うほどの出来栄え
私も同感です。特にオーケストレーションの色彩感はラヴェルに匹敵する出来栄えではないでしょうか。
ラトル&ベルリン・フィルとリベラによる「雪片のワルツ」、本当に美しいですよね。私も、もう過去の同曲の名盤と比較するといった野暮なことはせず、純粋に現在の、指揮者もオケも合唱も皆若い、彼らの素晴らしい演奏をただただ楽しみたいと思いました。
>「くるみ割り人形」のように、見かけはメルヘンチックで明るい印象を与える音楽にもかかわらず、実は内面に「心の叫び」、「慟哭」を秘めるような傑作を聴くと、一層精神的に楽になる。
これも同感ですね。私も長いことチャイコフスキーの音楽を馬鹿にすることがクラシック音楽の通を気取るステータス、条件だと信じてきました。でも、それは大きな勘違い、間違いであることに気付きました。もう否定はしません。自分の心の中にも、彼の音楽と同じ快感曲線がクラシック初心者のころから失われずにしっかりとあることを・・・。
>作曲家の頭の片隅には「孤独」という文字が明滅する。
その言葉で思ったんですが、まさに現在の私と同じ、彼が48歳の時に書いた、ネガティブとポジティブの狭間で逡巡し、最終的に強引にポジティブに帰結させた交響曲第5番の、第2楽章の美しい旋律で有名なフレンチ・ホルンのソロ、あの深い「孤独」とはいったい何なんでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=5UMWtsnWpgw
このコメントを書いていて、2001年10月24日、愛知県芸術劇場コンサートホールで聴いた、朝比奈隆先生の生涯最後の演奏会でのこの曲の演奏のことを、つい思い出しました。体力の衰えからきたゆったりとした第2楽章は、その先生の体力とは裏腹に、真に神々しく感動的だったものです。「悲愴」の名演をあれだけ残されたことを考えるだけでも、先生にとっても、チャイコフスキーは掛け替えのない作曲家だったのでしょう。そして本音での共感度合いは、ことによるとブルックナーより上だったのではないか?とさえ、先生が残した数々の名演の録音を聴いていて、ふと感じる瞬間があります。
話はまったく変わりますが、こんな映像を発見しました。
「中学生時代の浅田真央 くるみ割り人形」
http://www.youtube.com/watch?v=0n4DhMHf6R4&feature=related
中学生の浅田真央も、最晩年の朝比奈先生をも虜にさせ、人生の節目でアーティストとしての命を懸けるに値するとさえ彼・彼女たちに信じさせたチャイコフスキーの音楽とは、真の意味での「人類の至宝」なのではないでしょうか?

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ラトルの「くるみ割り」をオススメいただき、ありがとうございます。とても感謝いたしております。
それにしても美しいです。作曲者が最晩年に人生を振り返るかのように様々な感情が組み込まれており、ラトルがそれを天才的な「読み」で表現しているように感じました。
>交響曲第5番の、第2楽章の美しい旋律で有名なフレンチ・ホルンのソロ、あの深い「孤独」とはいったい何なんでしょう。
先日、ポリスのアルバムを採り上げましたが、まさに”Message in a bottle”の歌詞にあるような、誰もが孤独に感じながら、実は誰ひとりとして孤独ではない、そんなようなメッセージが組み込まれているのではないでしょうか?誰もがあのホルン・ソロを聴いて「哀しみ」や「孤独」を感じたとするなら、それは音楽という万国共通言語を通じて、ひとつになっているという証でもあります。
http://classic.opus-3.net/blog/cat49/post-513/
それにしても朝比奈先生の最後の演奏会を聴かれている雅之さんが羨ましくてなりません。ひとりの大指揮者が人生の最期に大作曲家の傑作に対峙したときにこそ現れる何かオーラのようなものがあったんでしょうね。神々しさは残された録音からも感じられるくらいですから。
>チャイコフスキーの音楽とは、真の意味での「人類の至宝」なのではないでしょうか?
同感です。彼は単なるメロディストではないのです。一時期少しでも馬鹿にしていた時期があった僕も反省せねばいけないなと近頃は思っております。
それにしてもこの「くるみ割り」最高です。

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