自作自演が理想的音楽を紡ぐのかといえば、必ずしも是ではない。
どんな作品であろうと、それ以上の解釈を見せる演奏者が存在するのは確か。そこには技術的な問題もあろう。ただし、技術以上に問題となるのは心だ。
夜更けにフェデリコ・モンポウ。
熊本マリさんは、少女時代に初めてモンポウの音楽を聴いたときの印象を次のように書いている(ピアノはアリシア・デ・ラローチャ)。
そしてアンコール。不思議な、えもいわれぬ一曲が私の心を震わせた。
音の精霊たちが集まり、静かに祈るように舞うような印象・・・。
その曲の持つ独特の雰囲気は、少女だった私の脳裏に強烈に刻まれた。
わずか2分あまり。ベルベットで心が包まれるようなやわらかくあたたかい印象を残し、その曲は終った。
~熊本マリ著「人生を幸福にしてくれるピアノの話」(講談社)P19
そのときは、誰の何という作品なのか知る術がなかったそう。
しかし、10年後、ロンドン留学中に彼女は1枚のレコード(ラローチャの演奏)に出逢った。そこで、その音楽が「フェデリコ・モンポウの『内密な印象』より『秘密』」だと彼女は知ったのである。
ファンタジー小説に出てくる主人公のように、誰もが探し求めていた幻の宝石、世界一大きなルビーを発見したような気分になったほどだった。
~同上書P19-20
熊本さんの得た感激が手に取るようにわかる。
音楽の衝撃というのは、そういうところにこそあるのだ。
ラローチャのモンポウは美しい。熊本マリのモンポウも想いのこもった素晴らしいものだ。
しかし何と言っても、一番の演奏はフェデリコ・モンポウ自身によるものだろう。
モンポウ:
・内なる印象—哀歌(1911-14)
・子どもの情景(1915-18)
・クリスマスの飾り付け(1914-17)
・魅惑(1920-21)
・街はずれ(1916-17)
・遠くの祭り(ピアノのための6つの小品)(1920)
フェデリコ・モンポウ(ピアノ)(1974録音)
身体中に染み付いたスペインの熱い情動とでも言うのか。しかし、同国の人ですら表現し得ない、とても個人的な思想がおそらく刷り込まれるモンポウの歌。言葉同様、音楽も楽譜にした途端、真理から遠く離れていくように僕は思う。モンポウのピアノは、それこそ唯一無二の解釈であり、ここにこそ真実がある。
激動の欧州社会での孤独の表出の如し。
それでもモンポウの弾くモンポウは、とても自由で、そして温かい。他人が真似をできないのは、本人の内側にしかない民族的情緒だ。それは、同国人であれば、という単純なものではない。それこそ個のセンス。
ちなみに、熊本マリさんを虜にした「内なる印象」の、ジャジーな静けさは、ある意味キース・ジャレットの響きに通じるもの。
泣け、泣け、カタルーニャ
もはやお前は独り立ちしていないのだ!
あまりにも年経た昔から
他国者がこの国を支配している
カタルーニャ民謡「哀歌」
(濱田滋郎訳)
なるほど、モンポウのピアノが泣いている。
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