ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルのチャイコフスキー第4番(2002.10Live)を聴いて思ふ

僕としては、この猛暑、酷暑をぶっ飛ばすような音楽を期待していたのだけれど、少々違った。正直、こんな演奏だったかと不意を衝かれたような感じ。
派手ではなく決して立派でもない、いぶし銀の演奏とでもいうのか、冒頭ファンファーレから、暗く翳りのある表現で、実に予想外の音楽が鳴り響く。ロシア的憂愁を湛えた、これぞチャイコフスキーといもいうべき演奏が繰り広げられる。名演だ。
本来のワレリー・ゲルギエフの姿が刻印されるのだろう、内なるパッションは言語を絶し、聴けば聴くほど作曲家の亡霊に憑りつかれるかのように繰り返し聴きたくなるのだから不思議だ。

交響曲第4番作曲当時の、才気溢れるチャイコフスキーの作曲家論は、周辺諸国の状況も含め実に冷静に捉えられていて、興味深い。

これほど才能がいるのに、コールサコフを除いて、真面目なものは何も期待できないのです。わがロシアでは全てがこうだとは思いませんか?巨大な力があるのですが、何らかのプレヴェンが宿命的に邪魔して、広い場所にでて、然るべく戦うことを許さないのです。しかしいずれにしてもこのような力はあります。ムーソルグスキイのような人は、全くめちゃくちゃにですが、新しい言葉で話しています。美しくはありませんが、新鮮です。だから、ロシアはいつかきっと、芸術に新しい道を指し示してくれるような、強力な才能を輩出することを期待することができます。われわれの混乱は、ブラームスやドイツ人たちのように、真面目な芸術を装ったひどい無気力に比べれば、まだましです。彼らはどうしようもなく枯渇してしまいました。われわれはいずれはプレヴェンが落ちて、力が発揮されることを願うべきですが、今の所、本当に少ししか出来ていません。
フランス人に関して言えば、彼らは現在非常に強力に前進しています。もちろんベルリオーズは死んでから10年後の最近になって演奏し始めたばかりですが、多くの新しい才能と多くの旧習に逆らう闘志が現れました。
(1877年12月24日付、フォン・メック夫人宛手紙)
森田稔著「ロシア音楽の魅力―グリンカ・ムソルグスキー・チャイコフスキー」(東洋書店)P200-201

フォン・メック夫人宛てゆえ、包み隠すことのない本音だと思うが、ここには彼の音楽芸術に対しての見解、すなわち革新的であり、かつ美しいものでなければならないという意志が明確に示されている。しかも、ドビュッシー登場前の、フランス音楽が次代を牽引するだろうという予言に近い考えまで書かれているのだからさすがだと思う。

・チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調作品36
ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2002.10.17-21Live)

第4交響曲を初めて聴いたとき(40年前!)、僕が最も衝撃を受けたのが第3楽章スケルツォ。全編ピツィカートによる幻想の調べは、10代の僕の魂を射抜いた。それで音楽が成り立つのだという衝撃と、斬新さの中に垣間見える舞踊の絶え間ない動きに対する感応。

第3楽章には、これといってはっきりした情緒も確定的な表出もありません。ここにあるのは気まぐれな唐草模様です。われわれが酒を飲んでいささか酩酊したときにわれわれの脳裡にすべりこんでくるぼんやりした姿です。その気分は陽気になったり悲嘆にみちたりクルクルと変わります。
「作曲家別名曲解説ライブラリー8チャイコフスキー」(音楽之友社)P37

作曲者自身による説明文の「ぼんやりした姿」という表現は的を射る。しかし、ゲルギエフとウィーン・フィルが奏する第3楽章には、間違いなく情緒が宿る。指揮者の性質がありのままに示されるのだろうか、「ぼんやり」どころかチャイコフスキーの内面の不安と希望が刻印されるのである。
ところで、終楽章アレグロ・コン・フオーコが、煩くならないのが素晴らしい。堂々たる威風、コーダに向けて突進する(しかし乱れることのない)音調には、余裕が感じられる。おそらくこの頃がワレリー・ゲルギエフの絶頂期。

 

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