人間世界の酸いも甘いも、レオシュ・ヤナーチェクの選択する歌劇の題材は、いつもとても興味深い。実際僕は彼の思想に触発され、啓示を受け、いつも考えさせられるのである。
例えば、「利口な女狐の物語」では、生命を育む自然の雄大さと神秘から、作曲家の描く輪廻を超え、その環からいかに逃れねばならないかを教えられた。
あるいは、「カーチャ・カバノヴァー」からは、現実には決して越えられない、否、越えてはいけない関係があり、間違って越えてしまったときの(目には見えない)業というものの恐ろしさを知った。そしてまた、生こそが死であり、死がいわばあらゆる苦悩からの卒業であり、浄化なのだということを「死者の家から」からあらためて学んだ。
クリスマスの翌日フクワルディへ行くつもりです。“マクロプロス”を完成させました。可愛そうな300歳の美女!みんなは彼女のことを泥棒、嘘つき、感情のない動物と思っていた。“けだもの”、“売女”と呼び、絞め殺そうとさえしました・・・で、彼女の落ち度とは?長生きし過ぎたこと。私は彼女が気の毒でなりませんでした。3年間の仕事は終りました。そして今は?
(1925年12月5日付、カミラ・ステッスロヴァー宛)
~日本ヤナーチェク友の会編「歌劇マクロプロスの秘事—対訳と解説」P8
過ぎたるは及ばざるがごとし。
「マクロプロス事件」からは、「足るを知る」を学ぶ。
第3幕での、自分は337歳だと告白するエミリア・マルティの壮絶な叫び。ゼーダーシュトレームの歌唱の巧さに唖然。
ああ、こんなに長生きしてはいけない!
あなたたちにわかってほしい、
自分たちが気楽に生きてるさまを!
あなたたちはすべての物のすぐ近くにいる!
あなたたちにはすべてが意味を持ってる!
あなたたちにとりすべてに価値がある!
馬鹿な、あなたたちはとても幸せ・・・
愚かな偶然のおかげでね、
早々に死んでゆくという偶然のせいで。
~同上書P157
人は比較の中でないものねだりをする。
お金にせよ何にせよ、あるに越したことはないだろうが、あったらあったで無駄に消費すること必至。生命も同じこと。決められた短い、そして先の見えない人生ゆえ、一日一日を大事に過ごさなければならない。その中で、他人との関係を濃いものにし、絆を取り戻すことが大切だ。
・ヤナーチェク:歌劇「マクロプロス事件」
エリーザベト・ゼーダーシュトレーム(エミリア・マルティ、ソプラノ)
ペーター・ドヴォルスキー(アルベルト・グレゴル、テノール)
ヴラジミール・クレイチーク(ヴィーテク、テノール)
アンナ・チャコヴァー(クリスタ、ソプラノ)
ヴァーツラフ・ズィーテク(ヤロスラフ・プルス男爵、バリトン)
ズデニェック・シュヴェッヘラ(ヤネク、テノール)
ダリボル・イェドゥリチカ(コレナティー博士、バス)
イジー・ヨラン(道具方、バス)
イヴァーナ・ミクソヴァ(掃除婦、メゾソプラノ)
ベノ・ブラシュート(ハウク=シェンドルフ、テノール)
ブランカ・ヴィトコヴァ(メイド、コントラルト)
ウィーン国立歌劇場合唱団
サー・チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1978.10録音)
小さな、室内楽風の音楽は、終始爆発することなく静けさに溢れ、隅から隅まで老練の美しさを示す。いかにもヤナーチェクらしい、土臭い音調がまた、僕たちの魂にまで響く。
さすがにマッケラスの棒は自家薬籠中のもので、一分の隙もなくヤナーチェクの深層心理まで見透かす感情表現に富んだもの。音の微妙な動きや振幅の見事さは、他では決して得られないものではないか。
でも私の中では生命が止まってしまってる、
ああ、これ以上は耐えられない!
この恐ろしい孤独!
クリスタさん、どうせ空しいのよ、歌っても黙ってても・・・
嫌になった、良くあることも悪くあることも、
この地球も天も!
そして感ずるのは、その中で魂が死んだこと。
~同上書P159
ここでのウィーン・フィルのティンパニの響きの意味深さ。
もちろんゼーダーシュトレームの歌うエミリア・マルティの心情吐露。この幕切れは、決して悲劇ではない。
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