若い頃、ブルーズ・ロックをなかなか理解できなかった。もうひとつ僕の心を捉えなかった。でも今は違う。いつの頃か、Led ZeppelinやFreeや、The Rolling Stonesの音楽を受容できる体質になっていた。この本を読んでいて、どうしてそうだったのか少しわかった気がした。
上巻280ページ、質問、ブルーズについて
「・・・ブルーズは20世紀音楽としても、またアメリカ文化の一端と考えても重要ですし、えー、商業音楽の中のひとつのウィルスと考えても非常に重要なもので、それだけ研究しても一生かかるようなものなので、・・・ただ、この文脈の中で少し説明すると、7thからトライアドに至って曲が終わる、という終始感をブルーズは相手にしなかった、というか別なロジックでもって音楽を進めたり終わらせたりしたわけです。だからこそ、ブルーズは西洋音楽に対する大カルチャーショックで、ものすごい破壊力を持っていたわけで、7thのまま、ドミナントのまま終わってもいい、もっと言うと、この間説明したように、メジャーの調性の中で、マイナーな音が入っていても良い。もっと極端に言うと、何でも良い(笑)。・・・まあ、そのくらいブルーズは強力な衝動で、西洋の調性システムに対して揺さぶりをかけたんです。で、揺さぶりをかけたんですけど、言ってしまえば、揺さぶりをかけたところに留っていたおかげで、ここまで豊かになったと言えると思います。・・・」
なるほど「ウィルス」か!ブルーズは、強力な衝動で調性システムに揺さぶりをかけようとしたのね・・・!!しかも破壊しそうで破壊しない、微妙なところで留まるという・・・。
20代の頃、古典派やロマン派のせいぜい後期、つまり19世紀までの音楽ばかりを中心に聞いていた僕には、そもそも「システム」を破壊しようとする衝動そのものが受けつけ難かったのかな。それでもポピュラー音楽を受け容れ、少しずつ理解できるようになる過程の中で、革新でありながら保守という、いわば宙ぶらりんな状態の心地良さがすっと腹に落ちたということなのだろう。
久しぶりに最強のブルーズ・ロック・ヴォーカリストである、ポール・ロジャースのアルバムを聴く。シカゴ・ブルーズの父、マディ・ウォーターズに捧げた素敵なアルバム。バディ・ガイやジェフ・ベック、デイヴィッド・ギルモア、ブライアン・メイなど11人の名ギタリストが、それぞれの楽曲にゲストとして参加する。ポール・ロジャースのヴォーカルも、それぞれのギタリストの腕もさることながら、そもそも楽曲のもつエネルギーと言ったら・・・。腸(はらわた)に染みる・・・。
こんばんは。
最近、
長調→明るい(楽しい)→ポジティブ
短調→暗い(悲しい)→ネガティブ
という、西洋の調性システムのステロタイプ的固定概念自体に疑問を持ち始めています。
たとえば昔の日本では、短調→暗い(悲しい)→ネガティヴという西洋の調性システムの法則とは違う音楽論理だったのではないかと?
「君が代」にしても
「越天楽」(黒田節)にしても
http://www.youtube.com/watch?v=jmNwRakOoSA
「うれしいひなまつり」(サトウハチロー(山野三郎):詩、河村光陽:曲)
http://www.youtube.com/watch?v=JdnKviBbiRw
にせよ、本来は御目出度い音楽です。
それを、「暗い」とか「ネガティブな楽曲」、としか感じることが出来ない西洋の調性システムに毒された我々現代日本人の感性とは、ジャンクフードしか美味しいと感じることの出来ない、若い世代にありがちな貧しい味覚のようなものではないのでしょうか?
上のコメント、書きこむ時間が少なく、乱暴な議論になったので、少し付け加えると、長調・短調のどちらでもなく、じつに不思議な終止の「君が代」
http://www.plamrec.com/kimigayo-gakuhu.htm
とは、まさにブルーズ的といえるかもしれませんね。
昨夜あれから、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタを聴いてから寝ました。あの曲の第2楽章もブルーズですね。
何だか、今度のルプーによるドビュッシー:前奏曲第1巻の実演が楽しみになってきました。ドビュッシーやラヴェルを、モードやブルーズの観点から聴き直すと、いろんな発見が出来そうですね。
>雅之様
おはようございます。
菊地氏の本を読んでいて、あらためて思ったのは、我々は音楽においても西洋によって合理的に作られたシステムにのっかっているんだということです。もちろんそれは良い悪いという問題ではないのですが、日本人が忘れてしまった感性が「君が代」や雅楽などの世界に表出してるんだろうな、と。ブルーズなどももとはアメリカの黒人音楽が発祥ですから、その意味では何か近いものがあるのかもしれません。
ラヴェルのヴァイオリン・ソナタも確かにおっしゃるとおりですね。コパチンスカヤのを聴かれたんですかね?
>ドビュッシーやラヴェルを、モードやブルーズの観点から聴き直すと、いろんな発見が出来そうですね。
同感です。ちなみに、僕も来週ルプーのリサイタルに行きますが、演目にドビュッシーは入っていないです・・・。
>我々は音楽においても西洋によって合理的に作られたシステムにのっかっているんだということです。
そうですよね。
幾度となくここでも話題にした、平均律音程の是非や、ビブラート、ポルタメントについての誤った歴史認識及び現在の画一的なピリオド奏法の件や、CDの16bit・44.1kHzというじつに合理的なフォーマットに対する批判も、問題意識の根っこは、同じところにあるような気がします。
その多くが、良い悪いという問題ではまったくないのですがね・・・。
「生物多様性」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7
という意味からも考えます。
雑音だって「音楽」だよねと・・・。
>雅之様
こんばんは。
>雑音だって「音楽」だよねと・・・。
そういうことになりますよね。ただ、なかなかそこまでは受け容れがたい気がしますが・・・。まぁ、菊地氏の言う「揺さぶりをかけたんだけど、揺さぶりをかけたところに留っていたおかげで、ここまで豊かになった」という表現、いわゆるギリギリのところで留まりながら発露するというのが、少なくとも人間が気持ちよく感じる最左翼なのかもしれませんね。
武満徹作曲の「ノヴェンバー・ステップス」、今年のサイトウ・キネン・オーケストラの演奏(尺八:三橋貴風 琵琶:田中之雄 指揮:下野竜也)、テレビの録画で楽しみました。
もうこの世にはいない、尺八:横山勝也、琵琶:鶴田錦史による演奏には、迫力の点で大きく及ばないと思いました。横山、鶴田両氏の偉大さを、今更のように発見しました。
http://www.youtube.com/watch?v=3SakbvBWWBQ
が、しかし、武満自身が語った、
「オーケストラに対して、日本の伝統楽器をいかにも自然にブレンドするというようなことが、作曲家のメチエであってはならない。むしろ、琵琶と尺八がさししめす異質の音の領土を、オーケストラに対置することで際立たせるべきなのである」
「洋楽の音は水平に歩行する。だが、尺八の音は垂直に樹のように起る」
についての理解を一段と深めることはできました。
・・・・・・オーケストラによる徹底した前衛語法は、琵琶と尺八の伝統的五音音階の印象を全く掻き消し、楽器の持つ「障り」(ノイズ)の持ち味を最大限に引き立たせる。・・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9
この曲もまた、西洋と非西洋、合理主義と非合理主義、更には非合理同士である琵琶と尺八の「拮抗」でもあり、非西洋が「西洋の調性システムに対して揺さぶりをかけた」ブルーズ同様、二つの異文化の勢力による力の均衡から生まれた、「パワー・スポット」的傑作と申せましょうか(笑)。
>雅之様
こんばんは。
>「オーケストラに対して、日本の伝統楽器をいかにも自然にブレンドするというようなことが、作曲家のメチエであってはならない。むしろ、琵琶と尺八がさししめす異質の音の領土を、オーケストラに対置することで際立たせるべきなのである」
武満氏のこの言葉重みがありますね。音楽の世界に限らず、今こそ日本はもっと主張をしなければいけない、そういう時期なのかもしれません(先日の日航機墜落事故についてのやりとりの時にも少しそういうニュアンスに触れました)。そう考えると、昔大瀧師匠が編曲した「イエローサブマリン音頭」などもそういう「パワースポット」的傑作なのでしょうね。
http://classic.opus-3.net/blog/j/post-354/#comments