彼が神学と深い関係がある、いや特に創造論とさらに終末論に深い関わりがあるとは、どうして信じられようか。信じられるのである。それは何故か。すなわち、(われわれが問題としている)ほかでもないこの事がらにおいて、その全体をとりあげてみれば喜である創造について、彼は何事かを知っていたからなのである。
(カール・バルト)海老沢敏編・訳「モーツァルト論抄」
~「モーツァルト事典」(冬樹社)P190
発信するなら人を喜ばせることだ。
プレゼンテーションとは、ある意味勇気づけ。
ベートーヴェンとの邂逅、父レオポルトの死と、1787年は、モーツァルトにとって心労もある多忙な年。一方、独創力は飛躍的に進歩し、それまで積み重ねてきたものが一気に花開くかのように、彼は傑作を次々世に送り出すのである。
モーツァルトの心底にあったものは、(もちろんお金を工面することは当然だったが、本性で)人々を喜ばせたいという想いだったか。
1787年8月24日完成。
泉の如く湧き出る多様な楽想に言葉がない。
ヴァイオリン・ソナタ第42番イ長調K.526。
ここにおいて、ついにヴァイオリンとピアノが対等に機能し、モーツァルトのソナタが完成する。グリュミオーの高貴なヴァイオリンとハスキルの可憐なピアノが、切磋琢磨しつつ、喪失の悲しみと、生を謳歌する希望をあわせて歌う。
優雅な第1楽章モルト・アレグロは、ピアノの(いかにもモーツァルト的な)軽やかな響きが堪らない。また、囁くような第2楽章アンダンテの、清楚だけれど暗い音調は、どうにもハスキルが主導権を握っているかのよう。そして、終楽章プレストは、愉悦の塊。人々は弾け、踊る。
モーツァルトの方法は、作品の全体像が最初から浮かび上がり、それを端から音符に認めるという驚くべきものだったといわれる。ならば、演奏する上において重要なことは、冒頭から音楽の全体がくっきりと見えることだろう。グリュミオーとハスキルのコンビは、その点をはずさない。
モーツァルト:
・ヴァイオリン・ソナタ第40番変ロ長調K.454
・ヴァイオリン・ソナタ第42番イ長調K.526
アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)
クララ・ハスキル(ピアノ)(1956.1録音)
一方、絶頂期のモーツァルトの作品は、一分の隙もなく、隅から隅まであまりに美しく、そして切ない。ラルゴの序奏を持つK.454第1楽章は、ここでもハスキルのピアノが可憐で洒落て、モーツァルトの喜びを大らかに表現する。続く、第2楽章アンダンテの虚ろな色合いのピアノと、それに対峙するふくよかなヴァイオリンの掛け合いに心動く。終楽章アレグレットは、生きる快感。
霊界の深淵へと私たちをみちびくのはモーツァルトである。恐怖が私たちを包むが、仮借を加えぬそれは、むしろ無限なるものの予感である。—愛とそして悲しみが、やさしい精霊の声の中に鳴りひびく。夜は輝かしい深紅色の顫光の中に消え果て、言うにいわれぬ憧れのうちに、私たちは、私たちを親しげにその列の中に招き入れながら雲を突き破って永遠の天空の踊りのうちに飛翔する姿のあとを追って進むのだ。
(E.T.A.ホフマン)
~同上書P175
陰陽を超え、一に帰したモーツァルトの音楽はやはり永遠だ。
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