根気と愛のボブ・ディラン

bob_dylan_shot_of_love.jpg昨日、インバルの振るブルックナーの第6交響曲に触れ、第2楽章第3主題のところで、どういうわけかボブ・ディランの歌う“Lenny Bruce”を思い出した。旋律が似ているとか、そういうことではなく、何の前触れもなくただあのしわがれ声で歌うディランの声が突如聴こえて来たということ。残念ながら、まったく何の脈絡もない。ただ単に、30年近く前、浪人中に先生から薦められ買った当時新作だった“Shot Of Love”が、地味だが、何とも「前のめり」で肯定的な印象を与えるアルバムだったから、ブルックナーの「地味だが前向きな」交響曲を聴いて連想したのかも・・・。

ディランは難解だ。詩はもちろんのこと、同じ音楽でも時代によってまったくアレンジが変わる。それを楽しみにするディラン・フリークは多いが、できるだけ原曲に近いアレンジをと願う僕のような「中途半端な」ファンにとってはそのスタイルが難物。「音楽」とは「時」の芸術だから、録音された音盤を繰り返し鳴らさない限りは、どんな場合も「同じもの」を生成できないことはわかりつつも、刷り込まれたあの音楽をついつい人間は求めてしまう。おそらく天の邪鬼なんだろう、ディランはいつも聴衆に挑戦的だ。

今日はどんな音楽が運ばれてくるのだろう。そして、多数の作品の中から何が演奏されるのだろう。コントロール不能のジューク・ボックスをただただお任せで聴き続けるのには「根気」と、・・・ボブ・ディランに対するひたすらの「愛」が必要だ。

上記“Shot Of Love”には涙なくして聴けない名曲が収録されている。ラスト・ナンバーの“Every Grain Of Sand”。イントロからもう・・・。

「この歌は霊感を受けてできた歌だ。少しも困難なことはなかった。どこからかやってくる言葉を紙に写しているような感じだった。・・・この歌は、時代の流れに遅れまいとするようなことは超越しているんだ。・・・」(ボブ・ディラン)

原詩を読み、直接理解することはなかなか手強い、特にディランの場合は・・・。優れているであろう訳詩を読んでみても理解をするに一筋縄ではいかない。文字から隠されている心情を読みとること。それは書かれたスコアから作曲家の「意志」を上手に読み解くことに近い。

告白の時せまり
必要の時せまり
足もとで涙があふれ 生まれたばかりの種を
おしながすとき
中から死にかけた声がする
なにかをつかもうと
あぶなっかしげに 絶望的な気分で
がんばる声が 過ちを振り返る癖はやめよと
カインのように、成り行きをつなぐ鎖がみえたら 断ち切れ
(訳詞:中山容)

Bob Dylan:Shot of Love

ディランにとって大事なのは曲でなく、その「詩」にあるのか。今年の日本ツアーでも5日間で50曲近い歌を披露したそうだが、いずれも、原曲とは一音すら同じ音がないのではと思うほど別の曲に変わっていたとか。フリークは歌詞から何の曲かを判別できたらしいが、そうでない者には皆同じ曲に聴こえたのだと・・・。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ボブ・ディランについては勉強不足で深く語れませんので、岡本さんのブログ通して学びたいです。
>ディランは難解だ。詩はもちろんのこと、同じ音楽でも時代によってまったくアレンジが変わる。
>「音楽」とは「時」の芸術だから、
>おそらく天の邪鬼なんだろう、ディランはいつも聴衆に挑戦的だ。
>いずれも、原曲とは一音すら同じ音がないのではと思うほど別の曲に変わっていたとか。
こういう文言が、眠気を振り払い、一日のスタートに私を刺激し、よい触発になります、感謝です(笑)。私の連想はというと・・・。
・・・・・・クラシックの場合はある程度約束ごとがあって、どんなにノッていなくても、それこそ儀式のようなコンサートでも成り立ってしまう。しかし、ジャズメンというのは、それこそ空中から音楽をとり出すように、瞬間にそれをつかまえることで活動が成り立っている。しかも、ライヴは昼間一回、夜二回など、数が多い。常にノッていなければならないミュージシャンたちも大変だ。
―――その中で本当にすごい人というのは、限られていますよね。やはり1960年代のジャズ黄金時代の人たちですよね。それでもまあ、毎日よかったわけではないと思いますけれど。でもやっぱりいつも彼らも探してますよね。マイルス・ディヴィスみたいに、民族音楽を取り入れたり、メンバーを入れ換えたり。自分でやったことをどんどんぶっ壊して周囲から批判を受けながら。でもあの人が電気分解したのも意味があると思うんですよね。常に、自分を新鮮に保とうとする努力には感心しますね。本当にすごいと思う。
(中略)
ここで思い出すのは、ジョルジュ・サンドが記しているショパンのエピソードである。沸き起こる霊感を即興演奏で表現するショパンは、そのあとで楽譜に書き留めるのに苦労して、一週間も書いては消し、書いては消し、あげくのはてに最初に書いたものに戻ったりする。ショパンが演奏した音楽はその瞬間にしかなく、別のときに弾いたらまた変わってしまうし、楽譜はその霊感をすべて記録することはできない。
―――そこのところがわかっていないと、絶対にその奥には行けない。・・・・・・青柳いづみこさん著『我が偏愛のピアニスト』中央公論社 127~129ページ 廻由美子さんについての項《音楽に対して絶対に自由でありたい》より
http://ondine-i.net/hyo-/s-hyo-74.html
(この本、いろいろご参考になることも多いかと思いますので、岡本さんに強く一読をお薦めします。)
金子建志氏著『こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲』 『マーラーの交響曲・2』(音楽之友社)の内容について紹介したサイトを見つけました。
http://www8.plala.or.jp/bone_trom/my_music/mahler_detail/conducter_mahler.htm
金子氏の『こだわり派のための名曲徹底分析』シリーズは現在絶版と思われますが、「ブルックナーの交響曲」や「ベートーヴェンの第九」「シューベルトの未完成」など、どれも現在絶版で入手しにくいかとは思いますが、貴重な資料満載で必読だと思いますので、これらの本もどこかで入手され強く一読されることをお薦めしておきたいです。
・・・・・・レヒナーは次のように回想している。-
 マーラーによれば、刺繍のパターンに基づいているコブランの織物みたいに、小節線が旋律的・リズム的な音楽本体の背後に隠れてしまうように、…小節線を絶えず消し去るように指揮すべきだというのだ。これに反して、凡庸な指揮者はすべての小節線を冊のように扱い、大根役者が一本調子に強調するみたいに、雑な物差しによって細分化したそれぞれに拘(こだわ)るのだ。
 マーラーの指揮ぶりをみていると、何拍子なのか見分けるのが不可能なことがよくあった。彼のバトンはどんなときでも、旋律的・リズム的に重要な中身を強調することに奉仕するのである。従って、しばしばマーラーは第1拍目をまったく滑るように流し、2拍目や3拍目、あるいは中心的アクセントがくるべき箇所を強調する。当然のことながら、そうした指揮法は、楽員達に、凡庸な指揮者達が金科玉条としているパターン化された振り方とはまったく異なった要求をすることになる。
 「それがわたしのもとでの演奏を難しくさせ、不平を言わせることになるとしても、私自身、何時もいつも、同じテンポを守ることなどできない。もし同じ単調なビートのトラックを繰り返す作業を強いられるなら、私は退屈で死んでしまうだろう」とマーラーは述べている。・・・・・・

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
僕もディランに関しての知識は薄いですから、そうそう語れるまでには至っていませんが・・・。一緒に勉強しましょう(笑)。
青柳いづみこさんの著書、相変わらず素敵ですね。いいことが書いてあります。これは読みます。サンドが記しているショパンのエピソードは、音楽というものの儚さを示してますね。諸行無常です。
あと、ネコケン氏のこだわり派シリーズ、随分前に僕も買って所有してますが多分隅々まで理解しきっていないと思うので早速読み直してみます。
ありがとうございます。

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