ビルスマのボッケリーニ チェロ協奏曲G.476ほか(1992.9録音)を聴いて思ふ

アンナー・ビルスマのルイジ・ボッケリーニをひもといた。
ヨーゼフ・ハイドンと同時代の、イタリアはルッカに生まれた天才。思考の関与する余地のない感覚の音楽が鳴り響く。

音楽は本来理屈で聴くものではない。
脳を開けば、そして本性にアクセスできれば、これほど揺さぶられるものはない。

「鳥まで来るなんて。何の用だ。」ゴーシュが云ひました。
「音楽を教はりたいのです。」
くゎくこう鳥はすまして云ひました。
ゴーシュは笑って
「音楽だと。おまへの歌は かくこう、かくこうといふだけぢゃあないか。」
するとくゎくこうが大へんまじめに
「えゝ、それなんです。けれどもむづかしいですからねえ。」と云ひました。
「むづかしいもんか。おまへたちのはたくさん啼くのがひどいだけで、なきやうは何でもないぢゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとへばかっこうとかうなくのとかっこうとかうなくのとでは聞いてゐてもよほどちがふでせう。」
「ちがはないね。」
「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっかうと一万云へば一万みんなちがふんです。」
「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれの処へ来なくてもいゝではないか。」
「セロ弾きのゴーシュ」(宮沢賢治全集7 ちくま文庫)P370-371

考えることは人間だけが持つ最大の能力のひとつだが、それによって失ったものもあることが示唆される。頭を使っているうちは、人々に感動を与えない。無心、無我、無垢。言葉を一旦横に置くことだ。それには大自然との対話こそが鍵であることをゴーシュは教えてくれる。

アンナー・ビルスマのルイジ・ボッケリーニは美しい。

ボッケリーニ:
・序曲(シンフォニア)ニ長調作品43, G.521
・チェロと管弦楽のための協奏曲ニ長調G.476
・八重奏曲(ノットゥルノ)ト長調作品38-4, G.470
・チェロと管弦楽のための協奏曲ハ長調G.573
・シンフォニアハ長調G.519
アンナー・ビルスマ(チェロ)
ジーン・ラモン指揮ターフェルムジーク(1992.9.15-17録音)

ピリオド楽器演奏の果敢な音圧と、ビルスマの優しいチェロの音色が混然一体となり、古色蒼然とした響きを醸す様が実に愛おしい。何という刺激。
ニ長調協奏曲第1楽章アレグロの溌剌たる音、続く、第2楽章ラルゴの一切の悲しみのない、抜けた喜びとでも表現しようか、この無垢な感じが堪らない。そして、終楽章アレグロ・ピアチェーレの天性の快活さ。
あるいは、(20世紀に派遣され、偽作の疑いもある)ハ長調協奏曲の、第1楽章マエストーソの、どこかもの憂い表情に心が動く。そして、静かに歩む第2楽章ラルゴ・カンタービレの魔法。同時に、終楽章アレグロ・コモドの解放。

その晩遅くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかくゎくこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「あゝくぁくこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんぢゃなかったんだ。」と云ひました。
~同上書P384

すべては慈しみなんだと思う。

 

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