アルバン・ベルク四重奏団のハイドン作品76-1ほか(1998.6&7録音)を聴いて思ふ

環境に左右され、また思考に囚われ、人は無意識に勝手な世界を想像(あるいは創造)してしまうもの。

ヨーゼフ・ハイドンが生きた時代は、貴族と市民の対立だけでなく、封建制の中で抑圧されていた女性が自己実現を求めるようになっての、男女の対立も顕在化し始めていたときだと言われる。
ハイドンの、堅牢なソナタ形式の中で縦横に自由に飛翔する音楽と、一方、緩やかな楽章で見せる高雅で優しい音調は、自身が貴族(エステルハージ家)に仕えた身分であったといういわば柵と、創造者としての生まれ持った直観を見事に融合した最高のシーンの顕れであると僕は思う。

喜多尾道冬さんが興味深い論を展開されている。

ハイドンは、時代がそのようなさまざまな対立をはらんで胎動しはじめているのを敏感に感じとり、早くも対立解消のための見取り図を描きはじめていた。しかしその予感さえないものは、いきなり処方を示されても戸惑うばかりだろう。聡明な彼は啓蒙時代にふさわしく、近づきつつある対立の不気味な地殻変動をまず聴き手にインプットする必要を感じた。
そのために彼は、いきなりソナタ形式で開始することを避け、第1楽章の冒頭に序奏を置く。この序奏が聴き手にいわば予備知識を与える役割を担う。序奏はゆっくりしたテンポのアダージョで、長調→短調、または短調→長調→短調と不安定に変化し、半終止か繋留の形で終わりつつ、本来の第1楽章の長調の主部に移行する。こうして序奏はなにか事件が起こる前ぶれのような緊張感をはらみ、聴き手の不安感や期待感を掻き立てる。
喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P153-154

音楽を聴く行為も、聴き手の勝手な幻想の上に成り立つものだということが、ここからもわかる。それにしても、そういう聴き手の情緒を見事に分析し、同時に(おそらく)直感的に序奏というアイディアを見つけ出したハイドンの天才に言葉がない。

アルバン・ベルク四重奏団による作品76(通称「エルデーディ四重奏曲」)から3曲(いずれも序奏付ではないけれど)。

ハイドン:
・弦楽四重奏曲第75番ト長調作品76-1/Hob.III:75
・弦楽四重奏曲第79番ニ長調作品76-5/Hob.III:79
・弦楽四重奏曲第80番変ホ長調作品76-6/Hob.III:80
アルバン・ベルク四重奏団
ギュンター・ピヒラー(第1ヴァイオリン)
ゲルハルト・シュルツ(第2ヴァイオリン)
トーマス・カクシュカ(ヴィオラ)
ヴァレンティン・エルベン(チェロ)(1998.6&7録音)

1797年の作曲。ハイドンは常に進歩を意識していたようで、ニ長調及び変ホ長調四重奏曲は、いずれも第1楽章がソナタ形式ではなく、変奏曲形式によっている(変ホ長調四重奏曲において、第2楽章に幻想曲を置く感性!)。円熟の彼が表現したかったことは何なのか?何と言っても対立を拒絶する調和の体現なのだろうか。また、全体から醸し出される安心と幸福感は、ハイドンが音楽を通じて世界に伝えたかったことなのだろうか。バランスといい、波長といい、一分の隙もない完璧な構成に感無量。

この調和の理念は、音楽のソナタ形式によってのみ体現されるのではない。調和の理念にさらに近いのが、ゲーテの長篇小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代・遍歴時代」だ。いわゆる教養小説と呼ばれるこの作品では、個人と社会との利害関係の対立はどうすれば調和しうるか、その処方が示されている。またヘーゲルの「精神現象学」で提示されている弁証法は、まさに対立するもの同士がいかにして折り合い、妥協点を探るかの形而上的な探究方法である。
~同上書P156

芸術、特に音楽は本来、すべてに調和をもたらす手段なのである。
多少過激であれ、後の世でワーグナーが求めたものが、堕落した宗教にとって代わる真の芸術であったことも、彼が世界に調和をもたらすことをおいて他に考えがなかったことを示すものだと思う。

 

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