それでは、生命とはいったい何であったか。それは熱だった。形態を維持しながらたえずその形態を変える不安定なものが作りだす熱、きわめて複雑にしてしかも精巧な構成を有する蛋白分子が、同一の状態を保持できないほど不断に分解し更新する過程に伴う物質熱である。生命とは、本来存在しえないものの存在、すなわち、崩壊と新生が交錯する熱過程の中にあってのみ、しかも甘美に痛ましく、辛うじて存在の点上に均衡を保っている存在である。生命は物質でも精神でもない。物質と精神の中間にあって、瀑布にかかる虹のような、また、炎のような、物質から生まれた一現象である。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(上巻)(新潮文庫)P572-573
マンの表現は遠回しだが、ある種的を射ていると僕は思う。
マケラの指揮するブラームスを聴いて、僕はこの一節に思い至った。
聴衆不在の中でのとてもオーソドックスな解釈。
その指揮姿に比して、音楽そのものは余分な力が入らず、(まだ随分若いのにもかかわらず)ヨハネス・ブラームスの枯淡の境地を体現しているのだから恐れ入る。
テンポはゆったりとするものの、拍はきびきび溌剌とし、音楽に余裕がある。
呼吸も実に深い。一度じっくりこの人の実演に触れてみたいものだと常々僕は思っている。
・ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98
クラウス・マケラ指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団(2021.6.4録音)
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポから実に客観的な演奏であり、楽章が進んでもそのスタンスは一向に変わることがない。コロナ禍の中にあってあえて聴衆を入れない形で行われたコンサートの模様のようだが、音楽が冷めているといえばそうだ。文字通り「物質でも精神でもない」しかし内側から生命力漲る音楽の奔流を感じられるのだからマケラは本物だと思うのである。白眉は終楽章パッサカリア(アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショナート)!!