ドーソン ル・コズ デュポスク マラン=ドゥゴール ド・メイ ヴィアラ フレクター ガーディナー指揮リヨン歌劇場管 グルック 歌劇「メッカの巡礼」(1990.5録音)

グルックのオペラを借りて、モーツァルトは「後宮からの逃走(誘拐)」を創作した。
物語の筋が相似形であるのはそのためだ。何という大らかな時代。
そして、モーツァルトにとって、オペラとはあくまで音楽劇であり、台本の出来不出来はどうでも良かった。むしろ私はグルックより良い音楽が書けるのだと言わんばかりにジングシュピール「後宮からの逃走(誘拐)」を作曲したのである。

モーツァルトは、最初から、オペラというものはコミックなものであれ、真面目なものであれ、できる限り一つの流れの音楽でなければならないと感じていた。彼はヒラーとかアンドレのような流行の作曲家の例に倣うつもりはなかった。彼らは単にドラマとは実際に関係のない、くだらない歌をつけていたにすぎない。モーツァルトにとって、オペラは常に〈音楽劇〉であった。そのことは《後宮》について書かれた次のような手紙を見ても明らかである。

オペラでは、詩は音楽の従順な娘でなければなりません。イタリアのコミック・オペラがいたるところで成功しているのは、なぜでしょうか。それらの台本といえば、全くつまらない、ばかげたものばかりです。—私がフランスで見たものすら、そうでした。その理由は、音楽が完全に主導権を握っているからです。それがあれば、聴衆は他のことはみな忘れてしまいます。したがって、筋の組み立てがうまくできており、セリフはただ音楽に合うように書かれていれば良く、そういうオペラなら必ず成功するでしょう。韻の踏み方というようなくだらない問題にこだわって、作曲者の考え方を壊してしまうような言葉や詩句を作ってもらいたくないのです。
エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P87-88

奔放なモーツァルトのイメージを覆す、頭脳的な、かつ音楽というものの真髄をとらえるモーツァルトの慧眼。歌劇「後宮からの逃走(誘拐)」をグルックは賞讃したという。そう、足の引っ張り合い、あるいは嫉妬などない古き良き、西洋古典音楽が最も輝いていた(?)時代。
音楽の出来こそすべてだったのだと思う。

・グルック:歌劇「思いがけない巡り会い、またはメッカの巡礼」(1764)
リン・ドーソン(レジア、ソプラノ)
クローディーヌ・ル・コズ(バルキス、ソプラノ)
カトリーヌ・デュボスク(ダルダネ、ソプラノ)
ソフィー・マラン=ドゥゴール(アミーヌ、ソプラノ)
ギ・ド・メイ(アリ、テノール)
ジャン=リュク・ヴィアラ(オスミン、テノール)
ガイ・フレクター(スルタン、テノール)
ジャン=フィリップ・ラフォン(ヴェルティゴ、バリトン)
ジル・カシュマイユ(托鉢僧、バリトン)
フランシス・ドゥジアック(隊長、テノール)
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮リヨン歌劇場管弦楽団(1990.5録音)

モーツァルトに優るとも劣らぬ勢いある音楽は、グルックの真価であり、それを見事に再現するガーディナーの真骨頂。(物語のあらすじは以下の通り)

バルソラの王子アリとペルシアの王女レジアとの恋の物語。
駆け落ちの最中に海賊に襲われ、離れ離れになった二人。
従者オスミンとともにアリはレジアを探す旅の途中、エジプトのカイロにたどり着く。
そこへ三人の美女(バルキス、ダルダネ、アミーヌ)が現われ、アリを誘惑しようとするが、実はこの三人はレジアの侍女で、アリがカイロに来たことを知ったレジアが、自分への恋心を試すために侍女たちを使って誘惑させていたのだった。
誘惑に落ちることのなかったアリはとうとうレジアとの再会を果たし、愛を確認しあうが、狩りに出かけたはずのスルタンが怒って戻ってきたということを聞き、托鉢僧に頼んでメッカの巡礼にまぎれて逃げようとする。
しかし、この托鉢僧が裏切り、彼らはスルタンに捕まってしまう。
そこで従者や侍女たちが、レジアとアリの深い愛を訴え、それを聞いて心動かされたスルタンは結局二人を許す。

~(こちらのブログ記事を参照)

駆け落ちとお試しと、裏切りと宥恕と。
人間世界のすべてを描いたその物語の顛末は、いわば「慈悲」というハッピーエンド。
カップリングのバレエ音楽「ドン・ファン」(1761)についてはまたいつか。


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