ブーレーズ バルトーク ピアノ協奏曲全集(2001-04録音)を聴いて思ふ

演奏者が変われば、その音楽が与える印象は180度変わる。
解釈があると同時に、そこには感覚があるからだろう。
人間は考える。そして、一方で人間は感じる。感覚にはある種根拠はない。強いて言うなら、宇宙と、世界とつながるときに顕現する目に見えない世界のこと。

ピエール・ブーレーズの言葉を引く。

知識、技術、そして熟練は絶対に必要だが、それだけでは、特定の演奏解釈の質を解明するには不十分である。瞬間の自発性は相変わらずキーワードであり、主要な謎であるからだ。その点で、概して演奏家である、オーケストラ指揮者という職業にはパラドックスがある。学べば学ぶほど、知れば知るほど、一層演奏家は思い切って直接的な衝動に身を委ね、敢えて直観的かつ自発的でもあるかも知れない。結局、「後天的な自発性」という現象は、演奏解釈と呼ばれるものの核心に位置している。それは単に予備的な作業の量と質にだけ依存するのではない。苦労したにもかかわらず、完全にはわがものとならなかった幾つかの作品が、一時期完全に休息した後、再度採り上げるや、以前よりも即座に一層馴染み深くなっているのが分かったこともある。それはまるで、意識的とは言い切れない、隠れたプロセスが働き、どこからともなく贈り物が降って来たかのようだった。
「序章 テクスト、作曲家とオーケストラ指揮者」
ピエール・ブーレーズ/笠羽映子訳「ブーレーズ作曲家論選」(ちくま学芸文庫)P37-38

不思議だけれど、感覚をつかめばつかむほど、贈り物に出逢える確度は高くなる。思考や感情の鎧を脱ぐことだ。

精緻、冷静、恐るべき熱量。
言葉にすれば矛盾が生じるが、真の音楽には果たしてパラドックスは付きものなのだろう。

バルトーク:
・ピアノ協奏曲第1番Sz.83(1926)
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)
ピエール・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団(2001.11録音)
・ピアノ協奏曲第2番Sz.95(1930-31)
レイフ=オヴェ・アンスネス(ピアノ)
ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2003.2録音)
・ピアノ協奏曲第3番Sz.119(1945)
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
ピエール・ブーレーズ指揮ロンドン交響楽団(2004.10録音)

驚異的なアンサンブルを誇るベルリン・フィルをバックにアンスネスが完璧な表現を生み出す第2番Sz.95は、第1楽章アレグロからものが違う。先日聴いたブロンフマン&サロネンの演奏が陽とするなら、陰の部分を一層強調する、魔術的表情とでも言うのか、言葉にならない魅力が放たれる。厳粛で虚ろな第2楽章アダージョも美しさの極み、終楽章アレグロ・モルトに至っては録音の素晴らしさも功を奏するのか、打楽器の強烈な、有機的な音が感動を喚起する。

何と言ってもグリモーの弾く第3番Sz.119の、中でも第2楽章アダージョ・レリジオーソの、黄泉の国から発せられるような癒しの音楽には、死を目前にしたバルトークの遺言のような印象があり、幻想的な祈りの音調に涙を誘われる。

あらかじめおことわりしておくならば、芸術において(たとえば音楽において)、厳密な意味での革新とは、かつて使われていたあらゆる手段の破壊であり、無からの出発、何千年も前への回帰を表します。ですので、芸術における完全な革新は不可能であり、少なくとも望ましくもないのです。音楽で言えば、それは今日知られているあらゆる楽音の否定、それに代わる何らかの素材の発明をすら意味します。そんな新しい素材など、ほとんど考えることもできません。楽音以外のどんな素材も音楽の本質を損なうものに思えるからです。
「ハーヴァード大学での講義」
ベーラ・バルトーク/伊東信宏・太田峰夫訳「バルトーク音楽論選」(ちくま学芸文庫)P202

農民音楽のエッセンスと、古の音楽のエッセンスを混交するバルトークの方法は、ある意味完全な革新だと僕は思う。少なくとも、同時代のラヴェルとも異なる、唯一無二の音楽がここにはある。

第1番Sz.83第1楽章アレグロ・モデラート―アレグロの、いかにもバルトークらしい舞踊。ツィマーマンのピアノが歌い、シカゴ響がうねる。また、静かな、夜の音楽である第2楽章アンダンテ―アレグロは、不思議な、東洋的な色香に満ちる。
名盤だ。

 

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