カヤヌス指揮ロンドン響のシベリウス「タピオラ」(1932.6録音)ほかを聴いて思ふ

寡黙。

かつて「バルト海の乙女」と呼ばれたヘルシンキ。港を中心とするコンパクトな街に約65万人が暮らす。まだ暗い朝7時台から、道を行き交う通勤・通学の人々の印象が総じて寡黙なのは、眠いからだけではないようだ。8時出社・16時退社という勤務スタイルが浸透しているフィンランドの価値観は「効率」に集約され、人々も必要上の雑談や華美な服装をしないように見える。首都の中心部とは思えないほど肩の力が抜け、リラックスして街を歩くことができる。通りの看板や店舗のBGMも必要最低限で足りているようだ。
~「partner」2019年1&2月号P12

「必要最低限」という言葉が光る。何事も「過ぎたるは」なのである。
ジャン・シベリウスの交響詩は、情景ではなく、心象を描写するものだ。寡黙な国民性である分、心の内側を言葉以外の手段を使って彼は発現する。
同様に、ロベルト・カヤヌスの音楽も、思念のこもった、しかし浪漫とは違う、美しい創造物。「ポホヨラの娘」を聴いて思った。

シベリウス:
・交響幻想曲「ポホヨラの娘」作品49(1906)(1932.6.29&30録音)
・劇音楽「ベルシャザールの饗宴」組曲作品51(1906)(1932.6.24&29録音)
・交響詩「タピオラ」作品112(1926)(1932.6.29&30録音)
ロベルト・カヤヌス指揮ロンドン交響楽団
・交響詩「夜の騎行と日の出」作品55(1909)(1936.1.23録音)
・交響詩「大洋の女神」作品73(1914)(1936.1.23録音)
・ロマンスハ長調作品42(1903)(1940.4.9録音)
サー・エイドリアン・ボールト指揮BBC交響楽団

シベリウスとカヤヌスの間には一時期大きな確執はあったものの、こういう録音を聴く限りにおいて、カヤヌスは少なくともシベリウスの音楽については十分理解し、また多大な愛情を持っていたのだろうと思う。「タピオラ」など、冒頭に現われる弦のモチーフから血が通い、大自然の深淵さと神秘を見事に言い当てる(作曲からわずか6年後のレコーディングであり、85年を経た今もって新鮮さを失わないのだからなおさら説得力が高い)。

大きく拡るようにそれらは立つ、北国の夕闇の森は、
古代の、神秘的で、野性の夢をはぐくむ、
それらの中に森の力強い神が住む、
そして暗がりの中に、森の魂が魔法の秘密を織る。
マッティ・フットゥネン著/舘野泉日本語版監修/菅野浩和訳「シベリウス―写真でたとる生涯」(音楽之友社)PP76

幾度も採り上げているが)「タピオラ」に掲げられた詩が想像力を煽る。
シベリウスの音楽に通底するのは、永遠の森の神々であり、カヤヌスの脳内にももちろん同じ神が宿るのである。

ボールト指揮BBC交響楽団の演奏は、一層劇的。
海にも神が宿るという、開放的で大らかなシベリウス。そして、弦楽合奏による「ロマンス」主部アンダンテの悲しみの愛。中間部ウン・ポケッティーノ・コン・モートの愉悦はその分まるで道化のよう。

 

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