フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン第9番(1942Live)を聴いて思ふ

迷いがあるとき、フルトヴェングラーのベートーヴェンを聴くが良い。
それも戦時中の、屈指の実況録音たちを。

リルケの人間的な弱さ—ひいては過剰な繊細さ、緻密な神経など、書簡を読むとひしひしと伝わってくるが、実際に作品にあらわれるものはその蒸留された一滴のしたたりなのだ。俗世では通用しないひとりよがり、利己的な依存症など、何と非難されても弁解の余地はない。にもかかわらずどこからともなく手をさしのべ援助してくれるひとがいる。館を提供してくれる貴婦人があらわれる。実に不思議だ。華麗な友人たち、恋人などの間を辛うじてわたり歩く。
志村ふくみ「薔薇のことぶれ―リルケ書簡」(人文書院)P9

そもそも他人に読まれることを前提とした作品と、(まさか後年公開されるとは思いもよらない)赤裸々なプライベートの日記ではその性質が違うのは当然のこと。ただし、詩人リルケも、俗人リルケも、同じリルケに違いない。

こう言うこともできる、ライナーの詩人としての偉大さと彼の人間的な悲劇は、対象なしになっている神の創造物に自身をぶちまけねばならなかった状況に起因する、と。信じている者に創作衝動、表現衝動が圧倒的になったとき、あるいはなるような場合は、彼はこの別の全能のものには触れない。まず彼など必要としない神を包括する者の実情には触れない。ライナーの中では対象のなさが彼の内奥の献身と態度を変えることはなかったが、芸術家、創造者としての彼の使命は、彼の最後のもの、人間的なものに手を染めざるをえなかった。それが失敗しそうになったところでは、それはまたその対象が創造の対象と一つになる人間的なものそれ自身をも脅かしたのであった。
ルー・アンドレーアス・ザロメ著/山本尤訳「ルー・ザロメ回想録」(ミネルヴァ書房)P122

繊細といえば聞こえが良いが、とどのつまりは自己中心的な依存性こそが彼の創造の源泉であり、それがまた人間的な弱さにつながる元凶であったことがわかる。そもそも芸術家というものは、自身の身勝手な、独断の眼鏡で物を見、それをいかにも仰々しく、あるいは(あくまで外面を)高潔に表現することができた人たちをいうのだ。

フルトヴェングラーは、リルケへのある種失望を手紙の中で次のように告げる。

その後リルケの後期の詩を、ぼくも丹念に読み返しました。しかし、貴兄の解釈に全面的に承服できない気持は変わりません。ぼくに言わせれば、リルケは詩人というよりも、詩的な人間といったほうが適当なのです。彼自身は、「祝祭を祝う」力をもはや持ちません。しかし—いやまさしくそのゆえにです—彼は祝祭的ないっさいの事柄に通じていたのです。いうまでもなくこの一点において、このなかば醒めた意識において、彼はまったくの「現代人」なのです。リルケがそのような人間であったればこそ、いやあまりにそうであったがゆえに、彼を、本来の意味で力を持った芸術家と見なすわけにはいかないのです。
しかしこのぼくの解釈もまた、あまりに個人的にすぎるかもしれません。
(1941年12月15日付、ルートヴィヒ・クルティウス宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P118

本人が言う通り、あまりに個人的に過ぎるだろう。そして彼はまた、1ヶ月半後の手紙で次のようにも書くのだ。

リルケの作り出した新しいものというのは、印象主義的な性質のもので(すべて「新しいもの」についていえることですが、真に偉大なものが新しかったためしはありません)、彼のいだいていた問題も印象派のそれなのです。彼は「もの」を神化しようとしました。あらゆるものをできるだけ虚心に体験しようとして、受動の姿勢に徹しました。そして客観の果ての、愛のない観察の危険を体験したのです。それとともに彼は、世界における愛の必然性を識り、真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならないあまたのことを識ってしまうのです。言葉を創造するものとして、リルケをヘルダーリンと同列に置くことは許されません。
(1942年1月29日付、ルートヴィヒ・クルティウス宛)
~同上書P119

しかし、否、それゆえに、そのことを反面教師にしたであろうフルトヴェングラーの芸術は、「祝祭を祝う」力に漲る。当時の、戦時中の一連の録音が遺されていることが幸い、熱波の如くの壮絶な、そして能動的な、今もって唯一無二のベートーヴェンを聴くが良い。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ティラ・ブリーム(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(メゾソプラノ)
ペーター・アンダース(テノール)
ルドルフ・ヴァッケ(バス)
ブルーノ・キッテル合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1942Live)

他のどの盤よりも、オーパス蔵盤の情報量の多さに驚きを隠せない。
77年も前の実況録音が、鮮明な音で蘇り、しかも、これまで聴いたことのないような真実味を帯び、迫り来る圧倒的音響!苦悩の第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソの神がかり的奇蹟。あの1951年バイロイト盤とはまた一線を画する、緻密で有機的な第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレ,アンダンテ・モデラート。そして、徹頭徹尾、祝祭の喜びに満ちる終楽章プレスト—アレグロ・アッサイの凄まじき魔法!

 

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