生き方の極意

最近は毎月のように教え子の結婚披露宴に招ばれる。
まさに「ご祝儀貧乏」という言葉が相応しい(苦笑)金回りだが、これだけ多くの後輩たちから「ぜひとも来ていただきたい」と声をかけていただけることがそもそもありがたいことで、何よりそれだけ多くの仲間が「僕」という人間を慕い、大事にしてくれているんだということの証ゆえ、本当に感謝の念を覚えずにはいられない。
そうだ、それこそこれまで僕を支えてくれたたくさんの人々を祝うために、そして喜んでもらうために一生懸命働き稼ぐことが大切なんだ、と本日の披露宴、そして二次会に出席してあらためて感じた。

幸せそうな新郎新婦の笑顔を見ていて、自分事のように嬉しかった。どんな夫婦でも何の問題もなく順風満帆というわけにはいかない。小さな喧嘩、瑣末な諸問題はおそらく絶えることはないだろう。それでも、互いが互いを大切にし、それを一つ一つ乗り越えてゆくことに実は意味がある。もちろん楽しいこと、嬉しいこと、そんな瞬間もたくさんあるはずだし。そうやって「生きていること」を実感することが人としてこの世に生を受けた醍醐味の一つなんだろう(仮に、結果的に2人が離れることになったとしてもそれはそれで良し。いずれ将来、その時を振り返った時にやっとその意味がわかることになるだろう)。身に起こるすべてに無意味なことはない。

ベートーヴェン最後の弦楽四重奏曲の楽譜には、”Muss es sein?”(かくあるべきか?)、”Es muss sein.”(かくあるべし)の意味深な署名があることは有名。その言葉の真意についてこれまで研究者が議論をしてきた。哲学的見解、あるいは家政婦との軽いやり取りに過ぎないなど様々な説があるが、本当のところは誰にもわかるまい。とはいえ、晩年のベートーヴェンの思考がある意味神がかっているというのは周知の事実であり、一種「悟り」の境地にあったのだろうという推測から、この言葉の意味は「すべての事実が必然であり、身の回りに起こる一切に無駄はない」、「過去にくよくよせず、未来に不安を覚えず、ただ今を生きろ」ということなんじゃないかと今更ながら考えた。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135
・弦楽四重奏曲第9番ハ長調作品59-3「ラズモフスキー第3番」
・ギュンター・ピヒラーのスピーチ
・アンコール~弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130-第5楽章カヴァティーナ
アルバン・ベルク四重奏団

1989年6月にライブ収録されたアルバン・ベルク四重奏団の新録音からの1枚。
この演奏を聴くと、ライブならではの臨場感とともに、「生の愉悦感」に溢れた晩年のベートーヴェンの「心」が一層ストレートに伝わってくる。「もはやこうするしかない」という、決して諦念ではない生き方の極意を体得した楽聖の後世の人々へのメッセージ・・・。
繰り返し味わいたい。


2 COMMENTS

EBJ

こんばんは。いいお話です。
僕も、人生に無駄なことなどないと思います。仮に、テレビをダラダラ観て無駄な時間を過ごしたとしても、そこから何かしらの学びがあるはずです。換言すると、どんなことからも、自分で、自分なりに、学びを搾り取ればよいと思います。
先程、戦争に関する、NHKの一風変わった番組を観たのですが、グッときました。人はみな何かしら抱えて生きていると思いますが、辛い戦争体験を抱え、誰にも打ち明けられず、ただただ数十年間を生きてきた方の胸の内は想像を絶しており、そのような方に比べれば、自分はまだまだだと、素直な気持ちになれました。一方で、そのような方は、人間として深みがあり、語弊があるかもしれませんが、美しいとも思います。
月並みに表現してしまうと、人間は苦労した分だけ成長する、幸せは幸せの顔をしていない、チャンスはチャンスの顔をしていない、ということで、とにかく前を向いて生きていくのがよろしいのでしょうね。
長文失礼。

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岡本 浩和

>EBJ様
おはようございます。

>人間は苦労した分だけ成長する、幸せは幸せの顔をしていない、チャンスはチャンスの顔をしていない、ということで、とにかく前を向いて生きていくのがよろしいのでしょうね。

いいですねぇ、全く同感です。
人間は様々体験して深みが増してゆくものだと僕も思います。
また機会を作ってお話ししましょう。

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