シェルヘン指揮ルガノ放送管のベートーヴェン第5番&第6番(1965録音)を聴いて思ふ

自由とは、ありのままに振舞うことである。
ありのままとは、思考や感情に縛られないこと。
人間は、意思疎通のため、ともすると形を残したがる生き物だ。しかし、形に残した瞬間に、それは空虚なものに成り下がる。なぜなら、人の見方、解釈の方法は千差万別ゆえ。

野獣のように唸るヘルマン・シェルヘンを聴いて思った。
楽譜とは、作曲家が後世に歴史を遺すために必要に迫られ使った手段に過ぎず、形に過ぎないもの。重要なことは、そこにどのように生命を吹き込み、再生するか。シェルヘンのベートーヴェンは奇天烈だ。およそ楽譜を無視した、天性の感覚だけで生み出された代物。だからこそそこに真実があるのだと僕は思う。

確かな生命力。豊かな感性。
テンポは揺れ、アゴーギクは天衣無縫。やりたい放題の演奏が、どうしてこうも胸を打つのか。

ほかに何ひとつ興味を示さないベートーヴェンを魅了してやまなかったのは、内面の形象と魔術師のごとく戯れることであった。いまや外の世界は完全に消滅した。失明によって視力を奪われたわけではない。聴力の喪失が、ついに耳からも外界を駆逐したのだ。目に映る外の世界が早々と消え去ってからというもの、ベートーヴェンの耳は外界がわずらわしい消息を押しつけてくる唯一の器官であった。ひたすら内なる音の世界に耳を澄ますことで活力を得ていた恍惚の夢想者は、色とりどりに着飾った人々でごった返すウィーンの街を歩きながら、大きく見開いた眼を虚空に向けて何を見ていたのだろうか?—難聴のきざしがあらわれ、進行しはじめた頃、ベートーヴェンはひどく悩み、気分はふさぎ込んだという。だが完全に聴力を失い、音楽の演奏を聴けなくなったベートーヴェンが悲嘆に暮れたという話は聞かない。生活上のつきあいに支障は出たものの、もともとそんなことに魅力を感じないベートーヴェンは、以前にもましてきっぱりと俗世のまじわりを絶った。
(池上純一訳「ベートーヴェン」1870)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P151

もしもベートーヴェンがシェルヘンの演奏を聴いたなら、やんやの喝采を送ったのではないか。いや、ホグウッドのものだろうと誰のものだろうと、賞賛したのかもしれない。つまり、楽譜に忠実かどうかなどは彼にとってどうでも良いことだということだ。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1965.2.26録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1965.3.12録音)
ヘルマン・シェルヘン指揮ルガノ放送管弦楽団

性格の異なる二つの交響曲が双生児であることが肝。
逃れられない二元世界を、聴覚を喪失することでベートーヴェンは超えることができたのだと思う。まさに解脱の交響曲。そのココロは、ハ短調交響曲終楽章アレグロの解放(ハ長調)にあり、また、(シェルヘンの猛烈な唸り声を伴った)「田園」交響曲終楽章「牧人の歌、嵐の後の感謝に満ちた気持ち」コーダ直前の頂点の浄化にあろう。

ヘルマン・シェルヘンは(荒々しく)歌う。しかも、独断と偏見でそれを奏でるのだ。それが不思議な説得力を持って僕たちの耳に届くのだからホンモノだ。
ちなみに、「田園」第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」は少々力み過ぎの感がある。第2楽章「小川のほとりの情景」は、もう少しゆったりしても良かったのでは。ただし、そういう「粗」が見えるからこそ音楽が生きているということだ。どんな音楽も、どんな演奏も唯一無二であり、人類のかけがえのない宝なのだと思う。

思考と感情の解放だ。

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください