僕にとってモーツァルトのピアノ協奏曲は「心の故郷」である。モーツァルトの真髄を知るなら歌劇かピアノ曲をということはよくいわれる。まだクラシック音楽を聴き始めて間もない頃、ラローチャの独奏でショルティが演奏した第27番変ロ長調K.595のえもいわれぬ美しい調べに夢中になり、この音楽を聴かないまま眠ることのできなかった日々を思い出す。以来、第20番以降のピアノ協奏曲を中心に様々な演奏家の録音(高校生だったゆえ、当然レコードをそう易々と買い集められるわけでもなく、FMのエアチェックや友人からレコードを借りてカセットテープに録音するという作業を繰り返していた)をのめりこむように聴いては友人とモーツァルトのピアノ協奏曲について熱く語ったあの頃が不思議に懐かしい。
久しぶりにゼルキンがアバドのバックで老練の極みのピアノを披露した演奏が聴きたくなり、第9番「ジュノーム」と第17番がカップリングされた名盤を取り出した。もうかれこれ20年近く前、CD初期の頃に買い、もう何年、いや10何年も聴いていなかった音盤である。
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271「ジュノーム」
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団
僕は初めて「ジュノーム」協奏曲を聴いて、すぐさまこの音楽の虜になった。第1楽章冒頭の主題はとてもわかりやすい歌謡調のメロディで、何度聴いても嬉しくなった。そして、短調の哀しげな愁いある第2楽章を経て、第3楽章プレストは一転、ウキウキとした喜びに満ちた楽想で、これぞアマデウスの「高貴なお遊び」という感じで、独り悦に浸って心躍らせていたものである。
この出会いから数年後、世の中はCD時代に移行し、晩年のゼルキンがモーツァルトの協奏曲を順番に録音し始めたというニュースを聴くや、最初に購入したのがこの音盤であった。久しぶりに耳にした「ジュノーム」協奏曲は、予想以上に落ち着いた装いで、さすが巨匠ルドルフ・ゼルキンと思わせるほどの愉悦の中に悲哀を秘めた絶品。何よりも第2楽章アンダンティーノを聴くだけでこのCDの価値は大いにあると僕は思うのである。
昨日からモーツァルトの音楽を立て続けに聴いていて、多少感傷に浸りたいという意識もあったのだろうか、とてもこの音楽が身に染みた。部屋の中でもいよいよ暖房が必要になってきたこの頃、モーツァルトの「愉悦」と「悲哀」の声が余計に心に染み、響き渡る。
ところで、久しぶりに「ジュノーム」を堪能し、続く第17番が始まった途端、どうも音の調子が悪い。音飛びがし、感興を殺がれる。CDプレーヤーには問題はない。特に初期盤に多いように思うのだが、長い間聴かずにしまってあったCDを聴くと時折こういう状態になることがある。盤面をよく確かめてみると、ところどころに黴状の瑕のようなものがついており、これが原因だと思うのだが、これってどうしようもないものなのだろうか・・・。新しく買い換える以外に方法はないのか・・・。
HMVの通販を調べてみると、ゼルキン&アバドの協奏曲集は相当安くなっており、Boxセットで買い換えてみてもさして痛くはないのだが、それにしても大事な音盤。買い換えるほどしょっちゅう聴く音盤でもないゆえ迷ってしまう・・・。
⇒旧ブログへ