wagner_knappertsbusch_munchen.jpg5つの儀式で有名なチベット体操には、実は第6番目の儀式(体操)がある。僕は5年前から欠かさずこの体操を朝課にしているが、第6体操だけは封印したままだ。なぜなら、いわゆる性的なエネルギーをより高次のエネルギーに転化するためのワークゆえ、「性機能を捨てる、あるいは捨てても良いと考えている人」にしかオススメできないからだ。裏を返せば「生命エネルギー」の源泉が「性的エネルギー」と直結しているということ、すなわち生命活動そのものが「性」であるということなのである。

40数年前上映された際、物議を醸した三島由紀夫の「憂國」の DVDを観ていて、三島という作家がいかに未来と過去を縦横無尽に往来できた宇宙人的な人間だったのかがあからさまに想像でき、彼の作品どころかその人間性にこれまで以上に興味をもつようになった。とにかく、この映画は18歳未満NGの但し書きがついた30分ほどの短編映画ではあるものの、思ったより過激な演出は少なく(いや、最後の切腹、そして妻の愛に基づく死のシーンは過激かな・・・)、時間の経過を全く感じさせない不思議なリアルさをもつのである。

この映画の外国語版は「The Rite of Love & Death(愛と死の儀式)」というタイトルなのだが、「生」が「性」と直結するものなら、「性愛」と「死」をテーマにしたこういう芸術作品についてはどう考えるべきなのだろうか?深く追究する暇も余裕もないが、「生」と「死」とは表裏一体で、連続したものだと考えるのが妥当なのか・・・。別に厭世主義者ではないが、所詮、人間は生まれた時から死に向かって生きているようなものだし(だからこそ「今」を一生懸命生きて「生を全うせよ」という考え方になるのだが)、などと思案する。

ところで、この映画の素晴らしいところは、視覚的にそして聴覚的に「人をその気にさせる」芸術作品であるということ。一切の台詞なく、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の音楽だけを頼りに物語が進行していく様そのものがすでに天才的な創造物といえるが、ともかく下手なAV作品などより恍惚としたエクスタシーのエネルギーを放射しているところが凄い。僕はそれなりに三島の有名な作品は読んできたが、この作家の天才性には常に舌を巻く。これほど先を見通し、真理を見透かしていた芸術家は少ないのではないか。死に急がなかったならば、間違いなくノーベル賞作家になっていたと確信する。

ワーグナー:管弦楽曲集Ⅰ
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

この音盤の価値は、「トリスタンとイゾルデ~第1幕前奏曲とイゾルデの愛の死」はもちろんなのだが、実はむしろそれ以外の楽曲にある。特に、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲と歌劇「タンホイザー」序曲の息の長い悠然たるテンポとこれでもかというほど地に足の着いた、つまり、軸のしっかりした音楽作りは最晩年のクナッパーツブッシュにしか成すことのできなかった神業だと思う(この上は、聖金曜日の音楽が入っていないことが痛恨事!)。「トリスタン」に関してはニルソンの歌唱を伴ったウィーン・フィルとのスタジオ盤や、先日採り上げたライブDVDの方がより見事(とはいえ、この「憂國」を見る限りにおいては、歌を伴わない管弦楽のみの「愛の死」を聴きたい時、この音盤が最右翼であると僕は思う)。

前述の「性エネルギー」を見事に「生エネルギー」に転化し、「聖エネルギー」として受容できる作曲家こそ神の子モーツァルトなのではないかと、カール・ベームが10年という歳月をかけベルリン・フィルを指揮して録音した交響曲集を聴きながらふと考えた。モーツァルトはやはり子どもの頃からある意味完成していた天才である。

モーツァルト:交響曲集
カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1959~69録音)

一家に1セット、モーツァルト交響曲集。さすがに全曲の録音ではないものの、例のホグウッドの古楽器を使用しての学究的な演奏とは比べるまでもない深みと明るさ、そして重みを持つ名盤。僕は、モーツァルトやハイドンなどの演奏に関しては、現代オーケストラのモダン奏法での演奏を好む。

※「守るべき」ものが増えたことを意識せよとアドバイスを受けた。世の中の目に見えないものの影響を良いも悪いも受けやすくなったということである。いずれにせよ「意識」すること、「注意」することが大事だ。

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