静けさと、深い沈黙

Takemitsu_field_of_miniatur1.jpg切り詰められたヴェーベルンの音楽から企業のサウンド・ロゴの話になり、果たして「音楽」ってどこからどこまでのことをいうのだろうと考えさせられた。ワーグナーが音楽と文学と、哲学、宗教までをも統合させて舞台総合芸術を創出しようとした試みは、乱暴な言い方をすれば、音楽の意味を極限にまで拡げ、できる限りの「モノ」をひとつにしてしまおうという挑戦だったと思うが、同じような資質、思考をもっていたロベルト・シューマンも音楽そのものに固有の意味を持たせようと躍起になった芸術家なのだろうと、ここ数ヶ月彼の音楽を聴き、考え至った。でも、シューマンは根っからの「耳」の人なのではないか。自身が統合失調なわけだから、そもそも「外」のものを統合することは不得手のようにも思う。そう、ワーグナーは「意志」を飛翔させ、限りなく「空想、妄想」が膨らんでいくという性質、能力を持って生まれていたのだと思うが、シューマンは違う。むしろ、自身の「言葉」や「概念」で雁字搦めになってしまうような、拡がるどころかミクロに収斂してゆく、そんなタイプだったんじゃないかと、昨日の「ゲノフェーファ」のことを再度思い出しながら考えた。

ワーグナーの音楽が外向きなのに対し、シューマンのそれは内向き。演出家が考えに考えて出した結論、そういう演出は確かに観衆にいろいろな思い、考えを抱かせるが、実際には後世の人間が研究するほど深い意味はないのではと。精神に異常を来すほど感受性が鋭かったロベルトの本質というのは音の裏に潜む思想やドラマにあるのではなく、実は音楽そのものにあると考えた方がしっくりくる。まぁ、こうやって考えていることも実に考え過ぎだから(笑)余計な思考は止めて、ただただ音楽を感じてみようか・・・。

シューマンは意志を極限にまで拡げようとしたが、拡げきれなかった、というよりその術がわからなかった。だったらヴェーベルンのようにとことんまで音楽を細分化し、聴衆に聴かせる方法をとればよかったのだろうが、時代がまだ追いついていなかった。
だからこそ、雅之さんがおっしゃるように「細胞くらいにまで小さく分解してしまっても個性が曲に刻印されている」ベートーヴェンの音楽は彼にとって憧れで
あり、目標だった。

武満徹:ミニアチュールⅠ/アンサンブルのための作品集

これを聴くとサウンド・ロゴというのもやっぱり「音楽」の範疇に入るんだなとあらためて思う。いずれも「説明」なしではわからないという点が同じ。サウンド・ロゴは企業名そのものが説明であり、その音のイメージを決定する。一方、1962年に作曲された「アルト・フルート、リュートとサンバル・アンティク
を伴うヴィブラフォンのための《サクリファイス》」などは、作曲者の下記の説明によってようやく意味がわかる。

「私は作曲という行為を-積極的な意味において-次のように考えています。音たちが劇的に出合う環境を作ること」
「この作品は特定の宗教のために書かれたものではないが、私の想像-厳密には私の聴覚的な想像世界-のうえでひとりの神に捧げられている。Chantと題したのはそのためであり、私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。(中略)私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを希んだ」

意味がわかれば理解はしやすくなるが、その分想像の幅が減じる。音を楽しむだけでいいのでは。意味などわからなくても十分に「音楽」だから。

ひょっとするとこの曲はKing Crimsonの”Moon Child”創作に影響を与えたのではなかろうか。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>ワーグナーの音楽が外向きなのに対し、シューマンのそれは内向き。
そういう意味では、ヘンデルとバッハの対比に似ていると思います。
>シューマンは意志を極限にまで拡げようとしたが、拡げきれなかった、というよりその術がわからなかった。
シューマンの曲で、最も私の心のの奥底まで沁みとおる、どうしても最後に行きつく場所は、今までのところ、ピアノ曲なんです。確か、昔、中河原理さんもおっしゃっていたように記憶しますが、シューマンのピアノ曲はバッハと通ずるものがあると思います。テクスチュアとストラクチュアが隣り合い、細胞と宇宙を同時に見渡すことができ、微細なものと大きなものの交流の現場に立つ悦びがあって、両者を同時に視野に収める緊張の悦びがある、といった、ブランデンブルク協奏曲の第5番第一楽章や、ショパンの練習曲集や、ブルックナーの交響曲第8番のフィナーレの逍遥ふう主題にも共通する悦びを、シューマンのピアノ曲から私は感じ取ります。
>「私は作曲という行為を-積極的な意味において-次のように考えています。音たちが劇的に出合う環境を作ること」
>意味がわかれば理解はしやすくなるが、その分想像の幅が減じる。音を楽しむだけでいいのでは。意味などわからなくても十分に「音楽」だから。
ショスタコーヴィチが、自分のドイツ式の綴りのイニシャルから取ったDSCH音型は?
マーラーの交響曲第10番第一楽章で、シェーンベルクが和声の革新とみなした、1オクターブ12音階中の9音が同時に鳴らされ、トランペットのA音の叫びだけが残るという劇的な、トーン・クラスターに近い部分なども?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC10%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)
これらの革新的な一部分だけを取っても、著作権の対象になる(なった)のか?
そもそも、絶対音楽とは? 標題音楽とは? 突き詰めれば詰めるほど曖昧になっていきますよね。
ヴェーベルン、武満徹、ミニマル・ミュージックと、シューマンを繋ぐ曲として、私なら「子供の情景」よりもずっとずっと好きな、後期に書かれた「森の情景」を挙げたいと思います。
シューマン/森の情景 7.予言鳥 Op.82
http://www.youtube.com/watch?v=CNWciXE9EtY
どうですか? シューマンのすぐ隣に武満がいると感じませんか?

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
>シューマンのピアノ曲はバッハと通ずるものがあると思います。テクスチュアとストラクチュアが隣り合い、細胞と宇宙を同時に見渡すことができ、微細なものと大きなものの交流の現場に立つ悦びがあって、両者を同時に視野に収める緊張の悦びがある、
なるほど、勉強になります。ヘンデルとバッハの対比についても以前話題になったように記憶しますが、そうやって深く追究してゆくと面白いものですね。ますますシューマンから目が離せません。
ご紹介の「予言の鳥」、おっしゃるようにすぐ隣に武満がいますね。
そういう風に考えていくと西洋音楽史の中でシューマンが果たした役割は途轍もなく大きなものですね。音楽史の中の「ハブ」のような役目というか。
>そもそも、絶対音楽とは? 標題音楽とは? 突き詰めれば詰めるほど曖昧になっていきますよね。
そういう議論自体がナンセンスになってきますよね。

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