朝比奈隆の演奏の最大の特長は、地に足の着いた悠揚さだが、その根底に流れる姿勢の最たるものは作品に対する真摯な謙虚さにあると思う。譜面に忠実にというよりも、楽譜に寄り添い、作曲家の心の声、魂の叫びをありのままに伝えようと苦心する姿勢に僕はいつも感動を覚える。
かえりみれば私自身も、長い間なんとかして大向うの聴衆に受けようと肩ひじを張り、独自の解釈を工夫しようと苦しみ疲れ、そしてすべては徒労であった。齢を重ねるにつれて気力は衰え、自信を失ってベートーベンの交響曲を指揮するのが恐ろしくなった。時には、責めはオーケストラの能力にあるとさえ考えた。やっとの事で忠実、細心に作品につかえる事のみが、迷いと不安からの救いであると気がつくまでに幾十年もの長い歳月が流れた。
「ベートーベンへの巡礼」
~朝比奈隆回想録「楽は堂に満ちて」(音楽之友社)P160
他人のせいにするのではなく、ひたすら物事に忠実、細心に仕え、自らを磨くこと。
朝比奈隆の想いが綴られた数多のエッセイには、音楽に限らずとも仕事をする上での、否、生きる上での大きなヒントが満載だ。
1975年の、大阪フィルとの初のヨーロッパ演奏旅行の記録。
何と大らかで、何と自然体のベートーヴェンであることか。
堂々たるテンポと、相変わらずの低い重心。まさか極東の地から訪れた田舎オーケストラがこれほどの音楽を再生、創造するとは現地の人々は想像すらできなかったのではないか。
微動だにしない中、絶妙なテンポの揺れ、 「エロイカ」第1楽章アレグロ・コン・ブリオ提示部の煩わしい反復はなく、しかも、コーダの2度目のファンファーレは当時の定石通り金管によって高らかに吹き鳴らされる。また、平成最初の朝比奈の「エロイカ」となった1989年2月の新日本フィルとの超絶名演奏であった「葬送行進曲」に優るとも劣らぬ、希望に満ちる第2楽章は、中でもトリオの精神の高揚感が美しく、おそらく聴衆の心を捉えて離さなかったのではなかろうか。そして何より、(ともすると平凡に陥る)終楽章アレグロ・モルトの圧倒的解放に、その後も決して変わることのなかった朝比奈隆の愚直さから生まれる真実を思うのである。
何と人間的な!
それにしてもアンコールであろう、悠揚迫らぬ「マイスタージンガー」前奏曲の神々しいばかりの愉悦!!また、途轍もないパワーと奧妙なるエネルギーに充たされる音響に魂が疼き、鼓舞される。
古典の現代的解釈という誘惑的なキャッチフレーズに迷わされる危険はいつだれにでもある。道はただ一筋「作品への忠誠」以外にはない。ワグナーの言った「ベートーベンへの巡礼」を一日でも長く歩み続けたいと願うのみである。
~同上書P160
僕は朝比奈隆の言葉にいつも納得させられ、時に涙が出るほど感激する。
彼はまた次のように語る。
専門の指揮者と教養あるプレーヤーとの関係は、軍隊みたいなもので、絶対服従という面がある。その時間、2時間なり3時間は。それをプレーヤーも納得して、一緒に舞台に出て、お客さまが切符を買ってくださるような演奏ができるなら結果としてそれでいいんです。
ただ曲に対する考えの違いというのはあります。言うなれば、他人がやっていることだから、こっちの計算通りにいかないときがあるんです。若いときは絶えずそうだったし、いまでも気をつけないと。
だから僕は聞くんです、「僕はこうやってるが、それでいいか」と。すると楽員のほうは「ちょっとやりにくいですな」とか言ってくれる。
それを言わないからあいだに垣根ができることになる。恥ずかしいことじゃないでしょ。どこの職場でもあるんじゃないかな。「これでいいか」と上の人に聞かれて「いいと思います」「それじゃやってくれや」という関係がいいと思う。命令して、「はあ」と答えるだけの関係だと、必ず帰りの電車の中で悪口言ってますよ。
~朝比奈隆「指揮者の仕事—朝比奈隆の交響楽談」(実業之日本社)P73-74
当たり前のことを当たり前にやること。シンプルだが、思考と感情の生き物である人間にはそれはとても難しいこと。それでも愚直にやってみること、そしてそれを続けることに尽きる。