「ルイス、いったいあなたは幸福なの?」
「ええ」
この言葉少ない答えを聞いてあきらめるべきだったのに、私は執拗に食いさがった。
「で、なぜだか知っていて?」
「いや」
私はこんどはポールの方を向いた。
「ポール、あなたは?」
「ぼくは間もなく完全に幸福になれるという望みをもっているんだがな」
~フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳「優しい関係」(新潮文庫)P74-75
何をもって幸福というのか人によって異なるが、それは、誰もが追い求める永遠のテーマ。ダリウス・ミヨーの音楽は、小難しい、表層的な、何だかうるさいばかりの喧騒の音楽(そんなはずはないのだが)だというイメージが僕の中にはあった。しかし、チェロ協奏曲は違う。音量が抑制され、音調は優雅で、温かく、とても幸せな気持ちを喚起する音楽だ。
多作家ミヨーは、それこそストラヴィンスキーの如く「カメレオン的七変化」の側面を持っていたのだ。また同時に、シェーンベルクのような先見性すら秘めていたのである。
ストラヴィンスキーとシェーンベルクのそれ(影響)をあげましょう。だが、わたしの同級生のダリュース・ミヨーのそれも忘れますまい。彼は勉強し、はたらきかけ、一種の確信・発明の天賦・大胆さをもって、語りかけてくれたので、田舎出の小心な少年はどぎまぎしてしまった。彼はわたしをあっちこっちにひきまわし、わたしの考えてもみなかった作家たちをみせてくれた—マニャールとか、セヴラックとか。それ以上に、彼は、わたしをとても愛してくれた。わたしも同じ愛でむくいた!しかも、けっきょく、彼の影響とわれわれの友情は、われわれをたがいに完全に独立不羈なものとした。彼はサティに熱狂的にうちこんだし、わたしはけっして《ワーグナーくたばれ!》と叫んだりしたことはない。
~アルチュール・オネゲル著/吉田秀和訳「わたしは作曲家である」(音楽之友社)P121
ミヨーとオネゲルは互いに十分に影響し合った。
オネゲルのチェロ協奏曲がまた、悲しく美しい。彼はとても人間らしい人間だった。第二次大戦後の、植民地のほとんど全域で独立運動が激しくなり、アルジェリアなどの植民地の動乱で手を焼く国家の姿に、特に厭世観を深めていったようだが、この作品は彼が最も脂の乗っていた時期に書かれたものだけあり、全編通じて生気に満ちる。モーリス・マレシャルによるカデンツァが心に沁みる。
ロストロポーヴィチは巧い。どんな難解なシーンも、いかにも容易く音化し、聴く者に希望の光を見せてくれる。ホディノットの「ノクティス・エキ」のチェロと管弦楽がぶつかり合う暗い官能と暴力的音響の裡に潜む神性(外面は異なれどその感覚はショスタコ―ヴィチに近い)に感動を覚える。何より第2楽章!
そして、パウル・ザッヒャー指揮コレギウム・ムジクム・チューリヒとのノルベール・モレの協奏曲には、第1楽章から順に「時を過ごすための歌」、「愛の歌」、「西風の歌」という標題が付されていて、いかにも前衛色濃い音楽だが、やはりここにも大いなる色香がある。それは、間違いなくロストロポーヴィチのチェロの音だ。
人間はそれを望みさえすれば、自分の運命の唯一至上の支配者である。これこそ実存主義の主張するところであり、実存主義が楽観主義であるゆえんである。
ボーヴォワール「実存主義と常識」