友人がBelly Danceを披露するというので、大崎のVirgin Caféで開催された「EARTH Chapter 1~大地の章」に顔を出してみた。ビール片手に、かなりビートの効いた音楽を聴きながらぼーっと考えたこと。
大地に根付いた土俗的な楽音は確かに人を「癒す」効果がありそうだが、本来はもっとプリミティブで、より激しく、そしてもっと開放的なリズムで、しかも自然の中で演った方がより効果的ではないか・・・。体調も決して思わしくなかったので、ダンスが終わって東京シャンズというバンドのライブが始まるや中座したが、残念ながら僕の心魂を揺るがすほどの感動は得られなかった(これから盛り上がるよというところだったかもしれないけど・・・)。
空海が著した「秘蔵宝鑰」の序に次のような言葉がある。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終わりに冥し。」
人はどこから来てどこに行くのだろう?生まれる前のことは暗闇同然、人間には見えない。そして、死んだ後もそうである。人間とはそれほど小っぽけな存在ゆえ、傲慢にならず謙虚に自らを省みて今の生を精進せよと弘法大師は語るのか・・・。
そういえば、マーラーの作曲した交響曲「大地の歌」の第1楽章(李白の漢詩「悲歌行」をもとに19世紀末にドイツの文学者ハンス・ベトゥゲが独語訳したもの)のサビは空海のこの言葉と同義だろう。
Dunkel ist das leben, ist der tod.
一般的には「生は暗く、死もまた暗い」という和訳がなされており、極めて厭世的な意味合いで捉えられることが多いと思う問題のフレーズであるが、「命は暗闇から来て、暗闇へと去ってゆく」という意味に考えた方がわかりやすい。そしてここでの「暗闇」とは決してネガティブなものではなく、人間の五感で捉えられない世界、いわゆる「あの世」のことであるのだと僕は考える。この言葉にマーラーは簡潔で美しいメロディーをつけている。
マーラー:交響曲「大地の歌」
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
ブルーノ・ワルターの名盤と天下を分かつオットー・クレンペラー屈指の名盤(であると僕は思う)。特に気分がすぐれない時に、このクレンペラー盤の第1楽章を聴くと元気になる(どういうわけかワルター盤でもバーンスタイン盤でもない)。突然の死の数ヶ月前のフリッツ・ヴンダーリヒの目の覚めるような溌剌とした歌声は、他のどんな歌い手をもってしても超えられない「艶」があり、「生の喜び」に溢れており、それが「元気の素」なのだろう。もちろん、第6楽章「告別」におけるルートヴィヒの名唱も捨てがたい。彼女の歌声は「死」の諦念をあくまで肯定的に表現しているのだと僕には聴こえる。
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