レコーディング~バッハ~「熱情」ソナタ

かながわアートホールで丸一日レコーディング漬け。楽屋にエンジニアの方と3人で篭っているとさすがに外の空気を思いっきり吸いたくなってくる。聴衆のいない平土間のホールは残響もたっぷりあり、日頃隣の部屋で鳴っているピアノの音とは比べられないほどきらきらした輝かしい音色を奏でてくれる。そもそも自宅にあるピアノは Bösendorfer、このホールのピアノはSteinway & Sonsだから音が違って当たり前なのだが・・・。
11:30少し前に会場入り。早速録音予定の音楽を弾き始める。いくつかTakeを録りつつ、昼食をはさみ結局終了したのは20:00過ぎ。お疲れ様でした。CDは3月下旬発売予定です。お楽しみに!ちなみに僕が弾いたんじゃないですよ(笑)

保土ヶ谷までの往復の車中で鈴木雅明氏の「バッハからの贈りもの」を斜め読みする。明後日の講座を控えての予習という意味合いもあるが、なるほど日本が誇るバッハ研究家であり、有数の演奏家である鈴木氏ならではの含蓄のある言葉の数々はとても興味深く、勉強になる。この本の中で述べられていることで、同感と思ったことの一つが下記。
「バッハが生活者としてのたくましさと創造者とのバランスがとれていたのは象徴的であり、脅威でもあるということ。」
このバランスは現代社会においても重要なことだが、なかなかそういう人はいないというのも事実。バッハがある意味「天才」、否「宇宙人」といわれる理由はそこにあるのかもしれない。講座でも触れるつもりだが、生活者というのはいわば「俗」の部分であり、創造者とは「聖」の部分である。面白いのは、バッハは生活のために「教会音楽」を書き、絶対的な創造者の一人として「世俗音楽」を書いたということ。それはすなわち、「教会音楽」こそバッハにとっては「俗」であり、「世俗音楽」が「聖」であるという逆転現象なのである。バッハの「教会音楽」は四角四面の型にはまっており、「世俗音楽」は宇宙的拡がりを感じることは以前書いたが、また一つその理由が明らかになった感じだ。
まさに「汲めども尽きぬミューズの泉、語れどはてなき」ヨハン・セバスティアン・バッハ。

今日はピアノ三昧であった。しばらくピアノのソロはいいかとも思ったが、帰宅するなりベートーヴェンの3大ソナタ集を聴く。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

久しぶりに聴いた。凄く良い。僕がまだ若い頃初めて聴いたベートーヴェンのソナタはこの「熱情」であったと記憶している。確かNHK-FMだったかの放送でその時はヴィルヘルム・ケンプが弾いたものだったと思う。第1楽章の冒頭、例の「運命」のモチーフが出るところから戦慄を覚えた。しばらくこのケンプの、というより「熱情」という音楽そのものにそのタイトルの如く熱く没頭し、来る日も来る日もエア・チェックしたカセットテープを聴いた。壮年期のベートーヴェンの激情が痛いほど伝わる。
20年以上前NHKホールで耳にしたポリーニの実演や、10年前浜離宮朝日ホールで聴いたハイドシェックの実演も懐かしく思い出す。

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