心に沁みる。否、魂にまで届く音の粒。
漠とした曇り空ではない、澄んだ空気の明快な風景。
輪郭の極めてはっきりしたエサ=ペッカ・サロネンの紡ぎ出す凛とした装いのクロード・ドビュッシー。天然色の夢の中にあるようなリアルな美しい音楽は、実に心地良い。
ヴィクトル・ユゴーは言っている。
草は生い茂り、子供らは死なねばならぬ。
私は言おう、芸術には残酷な法則があって、それは、人びとが死んでこそ、また私たち自身がありとあらゆる苦悩をなめつくして死んでこそ、草が生い茂るということだ、忘却の草ではなく、永遠の生命の草、豊饒な作品がうっそうと茂る草が。その草の上に後の世代の人びとがやって来て、地中に眠る人たちのことなど気にもかけず、陽気に彼らの「草上の食事」を楽しむことだろう。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて13 第七篇 見出された時II」(集英社)P260-261
ドビュッシーの作品も、もちろんプルーストの作品も、まさに作家が予見した通り創造から1世紀を経て、より一層の豊饒さを獲得する。何より選曲の素晴らしさ、そして、サロネンの音楽の神々しいばかりの風格。
特筆すべきは交響的断章「聖セバスティアンの殉教」。第3曲「受難」、セバスティアンがキリストの受難を語り舞うシーン(第3幕)の暗い官能!また、第4曲「良き羊飼キリスト」(第4幕)の、キリスト殉教シーンの神秘!何よりその後半部分は言葉に表せない崇高な、極めて美しく、音楽を超えた変容の音楽(終結のクレッシェンドが脳天を刺激する)。
空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだが、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの次期は互いにかけ離れていて、そのあいだに多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める場所は反対にどこまでも際限なくのびているのだ—〈時〉のなかに。
~同上書P280-281
ドビュッシーの音楽には「終わりがない」。
それは、永遠だ。
僕たちも誰ひとりとして落ちることなく永遠の中にある。
それゆえに、誰しも可能性は無限なのだ。
師なる人は、深く読みとく眼もて、その行く道に
鎮めたのだ、エデンの園の 心騒がす魅惑の数を、
その終焉の旋律は、ただ彼の声に残り、呼び覚ますのだ、
薔薇と 百合のために その名の神秘を。
この運命からは、残らなかったと言うのか、何も?
おお、君たち全てに告ぐ! 忘れるがよい、暗き信仰などは。
~渡辺守章訳「マラルメ詩集」(岩波文庫)P98