マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響 ショスタコーヴィチ第4番(2004.2録音)を聴いて思ふ

にわか雨が心地良かった。
自然には音がある。一定の呼吸で、消えては現われ、現れては消える音がある。 意図されない、人為のない音は実に美しい。
かつて三島由紀夫はこう書いた。

いつも自然の形象からうける私の感動が、絵画的というよりも音楽的なものであることは言葉の表現を大そう困難にする。私は音楽を作る才をもたないが、雄大なあるいは美しい自然に出会うと、目を以てよりも耳で以てこれを味わずにはいられない。私の内部にはこのときたしかに音楽があるが、それは外部に流露する機会をもたないで、徒らに蓄積されるほかはないのである。不幸にして私は詩人ですらないから、言葉に変化したこの音楽が恰も音符のように、最初の新鮮な幻影を喚起する幸福にも恵まれない。小説家は何よりもまず、立派な散文を書くことに力めなければならない。そこでこうした音楽は、散文のなかにそのまま言葉の形であらわれたり、浅墓な文章のリズムとしてあらわれたりするよりは、むしろ沈澱して散文の堅固な目に見えない実質として甦えるために、一度は死ぬ必要があるのである。
佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P81-82

幸いにしてショスタコーヴィチには、史上稀なる音楽の才があった。それゆえ、彼の音楽は、一時期仮死状態にあったものもあるとはいえ、一度も死ぬことはなかった。

最右翼は、1936年の、交響曲第4番ハ短調作品43。
およそ人の想像し得る枠を超えての宇宙の音の大シャワー。
何という呼吸!!!

マリス・ヤンソンスは、実に丁寧に、細部まで怠りなく、音楽を鳴らす。
第1楽章アレグレット・ポーコ・モデラート冒頭の衝撃的強奏から決して無理のない、何と柔軟な音が犇めくことか。終結前の主題の回帰するシーンのおどろおどろしさに恐怖を感じ、コーダの静かな、ヴァイオリン独奏の哀感、そして、ファゴットによる主題の回想の力強さ、さらには、イングリッシュ・ホルンに引き継がれて以降の濃密な音調に僕は思わず感動を覚える。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第4番ハ短調作品43(1936)(2004.2.9-12録音)
マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団
・映画音楽「馬あぶ」組曲作品97a(1955)(1997.4.14-16録音)
—第8番「ロマンス」
—第3番「民衆の祭日」
マリス・ヤンソンス指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

短い第2楽章モデラート・コン・モートは、エンディングのチクタク・リズムが僕のお気に入り。しかしそれよりも一層、終楽章ラルゴ—アレグロの、変幻自在に楽想が蠢く壮大な物語の大詰め、その最後に押し寄せる、チェレスタの霊妙な、言葉にならない静謐な美しさが堪らない。よくもこんな音楽が書けたものだ。

ところで、リオ・デ・ジャネイロの三島由紀夫。

私は突然立って、ウェザア・コートを着て、ホテルの玄関口へ下りて、タクシーを雇った。別に行く当てがあるのではない。アルゼンチンのバレエと音楽の活動写真を見にゆく。それはタンゴやルムバではなくって、ベートーヴェンとショパンの音楽である。「言葉の死ぬところ」という題は、「言葉の死ぬところに音楽がはじまる」という寓意である。
~同上書P72-73

音楽においては割合に保守的だった三島はショスタコーヴィチを聴いたのだろうか。あるいは、どう評価していたのだろうか。

組曲「馬あぶ」からの2曲は、さすが映画音楽だけある、曲調は極めてポピュラーで愛らしい。たぶん、こちらは三島好みの音楽だろう。 ヤンソンスは巧い。

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