「この世に、人間というものがなかったら、京都の町なんかもあらへんし、自然の林か、雑草の原どしたやろ。このへんかて、鹿やいのししなんかの、領分やったんとちがいますか。人間て、なんでこの世に出来ましたんやろ。おそろしおすな、人間て・・・。」
「苗子さん、そないなこと、考えはるの?」と、千重子はおどろいた。
「へえ、たまには・・・。」
「苗子さんは、人間がきらいやの。」
「人間は、大好きどすけど・・・。」と、苗子は答えた。「人間ほど、好きなものはおへんけど、もし、この地上に、人間がいなかったら、どないなったやろか。山のなかでうたたねをしたあとに、ふっと、そう思たりして・・・。」
~川端康成「古都」(新潮文庫)P166-167
楽天的とか厭世的とか、そんなことはどちらでも良い。
何にせよ、人間はいつも思考にとりつかれているのである。
ブレーズ・パスカルは、「パンセ」の中で次のように書いた。
(437)
我々は真理をのぞむ、そうして我々のうちに不安をしか見出さない。
我々は幸福を求める、そうしてみじめさと死とをしか見出さない。
我々は真理と幸福とをのぞまないでいることはできない。そうして確実をもつ力もなく幸福をもつ力もない。我々を罰するために、また我々がどこから落ちたかを感知せしめるために、この欲求は我々のうちに残されてある。
~パスカル/津田穣訳「パンセ(冥想録)上巻」(新潮文庫)P277
感覚と思考の狭間にあって苦悩する人間の姿。さすがに、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。」と語った人だけある。思考することの強みと弱点をこれほど端的に明文化したものは他にはないだろう。
好きだけど、嫌い。また、嫌いだけど、好き。幻と現の間で不安に怯えるのがそもそも人間なのである。
アントニン・ドヴォルザークを聴いた。
思考という枠の中でこれほど無駄のない完璧な音楽があろうか。しかも、新世界と旧世界の双方から素材を汲み取り、人々の感性にこれほど訴えかける音楽があろうか。
60年近く前の録音にもかかわらず、その音の馬力というか血の通った迫力は、そもそもイシュトヴァン・ケルテスのセンスによるものだろう。何という共感力!!第1楽章序奏アダージョの得も言われぬ官能、そして主部アレグロ・モルトに移るや類稀なる推進力。また、第2楽章ラルゴの憂愁、第3楽章スケルツォの激情とトリオにおける喜び。そして、終楽章アレグロ・コン・フォーコの解放!
おまけのスメタナの「売られた花嫁」からの抜粋がまた素敵。ボヘミアの民俗性と内側から湧き出る繊細な音調はケルテスならではだろう。
1972年4月16日、川端康成ガス自殺。
そして、その翌年4月16日、不慮の水難事故によりイシュトヴァン・ケルテス死去。
天才たちの遺した逸品を愛で、思いに耽る。
それでも思考は偉大なり。
おじゃまします。
私のドヴォルザーク「新世界より」の刷り込みは、このケルテス・ウィーンフィル盤でした。なつかしい!このレコードを聴いて、「新世界より」という音楽はなんてかっこいいのだろう!と子ども心に思ったものでした。この世には、引き付けられる音楽とそうでない音楽がある、と知ったのもこのころの気がします。その後、ケルテスの消息については知りませんでしたが、1973年に43才という若さで亡くなったんですね。初めて知りました。また、ケルテスはなんとなく南米の人かと思っていたのですが、ハンガリーの人だったことにも驚きました。ケルテスについて教えてくださり、ありがとうございました。
>ナカタ ヒロコ 様
そうでしたか!このケルテス盤はいまだに「新世界」指折りの1枚だと思います。
ケルテスの早世は実に残念です。
岡本 浩和 様
そんなに名盤だとは知りませんでした。これが最初の出会いだった幸運を思いました。それにしてもイスラエルに客演に来て遊泳中に高波にさらわれるとは、なんという非情なことでしょう! 本当に残念ですね。優れた芸術家の病気や事故には、ことさら心が痛みます。ジネット・ヌブー、ジャクリーヌ・デュプレ、クララ・ハスキル、アルトゥ―ロ・ボヌッチetc.
>ナカタ ヒロコ 様
>優れた芸術家の病気や事故には、ことさら心が痛みます。
同感です。運命とはいえ、あまりに残酷であり、聴衆やファンにとってもとても残念なことですね。
岡本 浩和様
すみません。このケルテス・ウィーンフィルがドヴォルザーク「新世界より」との最初の出会い、と書きましたが、LPを確かめたら、ケルテスとロンドン交響楽団でした。いい加減なことを言ってすみませんでした。⤵
>ナカタ ヒロコ 様
ご丁寧にありがとうございます。ロンドン響盤もより指揮者の個性が前面に出た名演ですよね。録音はわずか5年の差ですが、その間にケルテスがどれほど進化したかがわかります。
ありがとうございます。私も岡本様の言われるケルテスの進化を感じられたらと、ウィーンとロンドンと聴き比べてみようと思います。ありがとうございました。
おじゃまします。ご紹介のケルテス・ウィーンフィルのドボルザーク9番を聴いてみました。そして、ロンドンフィル盤のCDも聴いてみました。ウィーンフィルは、弦楽器も管楽器も伸び伸びとしてダイナミックで、広大なアメリカ大陸を彷彿とさせる名演奏ですね。わがロンドン・フィル盤はその点ではちょっと負けてるかな?と思わないでもなかったのですが、ロンドン盤の2楽章が、暖かくでしみじみしていて好きです。そんなことしか感じられなくて情けないのです。岡本さんの言われる「指揮者ケルテスの個性」「5年間の進化」と感じられるのは、どんなところでしたか?すみません。
>ナカタ ヒロコ 様
ウィーン・フィル盤はオーケストラの響きが最高に美しいと思うのですが、ケルテスの個性というよりウィーン・フィルの個性に負っているところが大きいように思います。一方、ロンドン響盤はケルテス自身が5年間で積み上げてきた実績と言いましょうか、自信に溢れた「彼自身の音」が反映されていますよね。それは、ドヴォルザークならではのスラヴ的土俗性というものや、ナカタ様がおっしゃる第2楽章の「温かさ」に滲み出ているように僕には思われます(ちなみに、第1楽章序奏から音は仄暗く、洗練されてはいるものの土臭く、まったく印象が異なります)。
ちなみに、この2種は両方とも備えるべき名盤でしょう。そのときの自分の心の状態によって選択するのが良いように思います。
岡本 浩和 様
もう一度第1楽章から聴いてみました。岡本さまのお言葉を手掛かりに聴くと、本当に違っていました。ウィーンの出だしは、広大な平原の夜明け前のような雰囲気で、ロンドンの方はもっと内面的なものを思いました。ウィーンはなんだかワーグナー的な部分もあり(何がワーグナー的かわからないのですが)グローバルな感じですが、ロンドンは、土着の力強さ、たくましさ、懐かしさのような地方性を感じました。優劣、勝ち負けの問題では全くありませんでした。お恥ずかしいことです。ケルテスは、自分の民族の色を5年目にして出そうとしたのでしょうか。ツィメルマンが自国のポーランドの音楽性を出したショパンのピアノ協奏曲を指揮・演奏したように。おかげさまで、ケルテスのウィーン盤・ロンドン盤からいろいろなことを知ったような気がします。ありがとうございました。
>ナカタ ヒロコ 様
>ケルテスは、自分の民族の色を5年目にして出そうとしたのでしょうか。
たぶん、自信がついたのかなと僕は思っています。
同一指揮者の聴き比べというのも面白いですよね。いろいろと勉強になります。
いつもありがとうございます。