蟻の目、そして鳥の目

tchaikovsky_toscanini_horowitz.jpg一見マイナスに見えることでも、後になって振り返ると「あれで良かったんだ」と思えることはよくあることだ。人は誰しも目先のことに執着すると、判断力を欠き、ものの本質が見えなくなり、ついついチャンスを逃してしまったり、間違った(間違ってるかどうかはそもそも判断できないが・・・)方向に進んでしまうことがある。自分自身に余裕がないときなどは特にそういう状態になってしまうのだが、特にこれまで順風満帆に育ち、挫折を経験していなかったり、壁にぶちあたったなどの経験を持たない優等生(あるいは何にも考えていないお馬鹿さんかも・・・)にこのタイプが多いように思う。
ともかく長期的な観点でことに携わり、ある時は物事をミクロ的に見、ある時は一歩引いて客観的にとらえるということはとても重要なことである。

「執着」、あるいは「とらわれ」。そういうものを無くす一番の方法は、やっぱり他人に喜んでいただけるような行動を1回でも多くできるよう心がけることだろう・・・。

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ長調作品23
ウラディーミル・ホロヴィッツ(ピアノ)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(1941.5)

若い頃あまり注意して聴いたことがなかったトスカニーニの音楽をあらためてじっくり聴いてみると、この指揮者は「蟻の目と鳥の目を完璧にもった」途轍もない音楽家なのではないかと思えてくる。一般的なイメージ通り、スコアを徹底的に読み込み、単に「即物的」な解釈に終始した機械仕掛けのような音楽作りをする音楽家なのだと僕は思い込んできた。20世紀前半を代表する指揮者のうちもう一方の雄であるフルトヴェングラーにあまりにも心酔していた時期が長かったゆえ、「全く正反対の解釈-つまり、インテンポで楽譜どおりの面白くない演奏をする大指揮者」という幼稚な先入観が邪魔をして、重要な録音はそこそこ所有しているものの全く無視をしてきたといっても過言でないほど僕はトスカニーニの音楽には疎い。
ところが、今になってベートーヴェンの交響曲や、前に採り上げたレスピーギなどを聴くにつれ、ある時はフルトヴェングラー以上にデモーニッシュで、またある時はワルター以上に叙情的な「心」を表現する創造の手腕に驚かされることが多いことに気づく。ともかく作曲者の意思をミクロ的、マクロ的にとらえ、縦横無尽に料理し、そしてトスカニーニ流のスパイスをピリッと効かせ、聴衆を圧倒的な感動に包む作品として再創造する技術と人間性。

今日採り上げたこの音盤もそう。このチャイコフスキーのコンチェルトは冒頭のホルンによる有名な序奏からして燃え盛る炎のような熱と光を創出する。それに、娘婿であるホロヴィッツとの火花散る掛け合いの見事さは、かのアルゲリッチ&コンドラシン盤以上に刺激的であり、聴く者にかけがえのない「精神の高揚」をもたらしてくれる。もう少し音が良ければ間違いなくこの曲のベストワンに挙げられる名盤なのである。

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