あの日、テレビで見たシーンは、まるで映画のようだった。
2機目の航空機が高層ビルにぶつかって、ようやくそれがテロという名の衝撃の事件だと悟った。
ソヴィエト連邦の巨匠アンドレイ・タルコフスキーは、自身の哲学を映像化するにあたって、古今の音楽を効果的に使用した。例えば、「ノスタルジア」におけるヴェルディのレクイエムは、真理を追究することの大切さを諭す狼煙のような役目を果たし、あるいは、ドメニコの焼身自殺シーンに流されるベートーヴェンの「歓喜の歌」も、文字通り人類が一つになることを教える役割を果たす。
現代においては、ジョン・ウィリアムズの美しくも勇気を奮い立たせる数多の音楽が世界を席巻する。今年1月の、世界がコロナ禍に染まる前のウィーンは楽友協会大ホールでのコンサートの様子がそのことを見事に証明する。
どんな形式、形態をとろうとも、それは紛れもなくドミトリー・ショスタコーヴィチの容である。お利口なショスタコーヴィチ。誇り高く、才能を無駄遣いせず、作品に注力する彼の意識は、いつ何時も清廉で、また精密だ。
音楽学校在学中に父親を亡くしたショスタコーヴィチは、サイレント映画館のピアノ伴奏をしながら苦学して学校を卒業したという。若き日より映画と密接な関係があったからかどうなのか、彼の創造した映画音楽は多い。それは、ベートーヴェンと同じく、おそらく「パンのための仕事」であった可能性が高い。体制に迎合し、自分の理想とは言えなかった音楽を、映画に付すために彼は仕事をした。
しかし、動機が何であれ、それらがショスタコーヴィチの筆に成ることは間違いない。どの瞬間もショスタコーヴィチらしい、素晴らしい音楽が並ぶ。
概して暗い印象を与えるのは、ショスタコーヴィチの音楽の常ではあるが、映画のシーンを髣髴とさせる音調に、僕はショスタコーヴィチの天才を思う。
娘ガリーナの回想が興味深い。
父は映画音楽を書きたくなかったんですけど、生活のためにしかたなくて。というのも、映画音楽は最も現実的な収入源だったからです。まともな交響曲より、映画の方が大金を稼げる場合が多かったんですよ。それに何よりも、父の作品の演奏が禁止されていた時期がありましたから。
ちょうどそういう時期に当たる1948年に、父はグリークマンにこんな手紙を書いています。「・・・この1年、多くの映画音楽を手掛けた。おかげでなんとか生活してはいるが、非常に疲れた。」
映画音楽の依頼を引き受けた父には、「〇〇シーン、〇分」と書かれた制作プランのようなものが送られてきました。ボールシェヴァから電話をかけてきた時、父はそのプランをモスクワに置き忘れたのです。父からの電話で、私がその紙を探しだして、読みあげていたというわけです。
「ちゃんとメモした? 次、モスクワの通りのトロリーバス・シーンが6分・・・白い静寂が3分・・・」等々。
この「白い静寂」というのは、とりわけ父を面白がらせました。「白い静寂? どうやって音楽で表現しろっていうんだい?」などと。
~ミハイル・アールドフ編/田中泰子・監修「カスチョールの会」訳「わが父ショスタコーヴィチ 初めて語られる大作曲家の素顔」(音楽之友社)P145-146
たとえお金のためだけであったとしても、その創造物は凡人の想像を超える。
アトヴミャーンの編集による「ハムレット」組曲と「馬あぶ」組曲。いずれもシーンを見事に描き分ける音楽の妙。すべてが愉快でまた美しい。