アンチェル指揮チェコ・フィル ドヴォルザーク「新世界」ほか(1958.10.10Live)を聴いて思ふ

「疾風怒濤の如く」という表現がぴったりの、あまりに劇的壮絶な演奏。
カレル・アンチェル指揮チェコ・フィルの、まるで生き物の如くの動的な、テンポの揺れ激しい、有機的な音楽が脳天を刺激する。
ライヴの凄まじさ極まれり。

スメタナの歌劇「売られた花嫁」序曲が、大交響曲の一楽章のように響く様。
極めつけは、ドヴォルザークの、人口に膾炙した「新世界」交響曲。たった今生まれ落ちたかのように跳ね、翔ける様子、何より金管群の耳をつんざくような甲高い咆哮が、聴く者の感性を激しく刺激する(第1楽章アダージョ—アレグロ・モルトの興奮!)。また、第2楽章ラルゴは、森羅万象、大いなる大自然の歌(ここでも金管群の発奮は聴きどころ)。
秒速で駆け抜けるような第3楽章スケルツォの勢いと、優雅に響くトリオの対比。そして、火を噴く終楽章アレグロ・コン・フオーコの生命力。

おそらく、当日、スイスはアスコナの会場にいた聴衆は全員腰を抜かしたのではないか。それほどに力の入った「新世界」交響曲。音楽は生きている。

・スメタナ:歌劇「売られた花嫁」序曲
・ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」
・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
カレル・アンチェル指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1958.10.10Live)

「展覧会の絵」は、冒頭プロムナードのファンファーレからいかにもアンチェル節。速めのテンポで颯爽と、また軽やかに歌われる様は、ムソルグスキーの毒の顕現。白眉は「カタコンブ」以降の、恐るべき音圧と深い思念の爆発か。狂暴なトランペットの光。「にわとりの足の上に立つバーバ・ヤーガの小屋」の暗澹たる恐怖から、終曲「キエフの大門」に至る解放(テンポを緩めての堂々たる発露)が、僕たちの魂を鷲づかみにして離さない。

およそ、この地球上に音楽を持たぬ民族はないといっていいだろう。音楽を好まぬ民族もいまい。
では、音楽を最も重要視した国はどこかというと、意外と思われるかもしれないが、じつは中国なのである。中国では紀元前二千年、あるいはそれ以上も前の三皇・五帝といった伝説時代に、音楽は早くも制度のなかに組みこまれていた。伝説によれば、五帝のひとり黄帝は十二律を制したといい、理想的な帝王堯、舜の時代にはあの有名な撃壤歌や南風歌がうたわれた。

森本哲郎「音楽への旅」(音楽之友社)P200

中国であることは決して意外ではない。

孔子は人間の修養について、こういっている。
詩ニ興リ、礼ニ立チ、楽ニ成ル。
すなわち、人間はまず詩を学んでゆたかな情操を身につけ、つぎに礼を学んで社会のルールを知り、最後に音楽によって人格を完成しなければならぬ、というのだ。周の時代、教養人として学ばねばならぬ科目を六芸といった。その六つの科目とは、礼・楽・射・御・書・数である。射とは弓を射ること、御とは馬を御すことで、いずれも武技である。こうした武技をふくめ、それこそ文武両道に秀でることが教養人たる条件であった。孔子はこのうち、とくに詩と礼と楽を重んじ、なかでも音楽を人格完成の仕上げと確信していた。

~同上書P205

音楽の本質は人々の心を和することにあることが、孔子の確信の理由だそうだ。
納得。しかしながら、アンチェルのこのライヴ録音は、心を和するよりも、あまりの強烈さに心を乱すかも。(笑)

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