エーリヒ・クライバー指揮コンセルトヘボウ管 ベートーヴェン「英雄」&第7番(1950.5録音)を聴いて思ふ

カルロス・クライバーのドキュメンタリー”I am lost to the world”を観た。
この映像については、幾度か視聴の後あらためて書くことにするが、人後に落ちない完璧主義者の彼が偉大な父エーリヒに強烈な劣等感を死ぬまで持ち続けていたことが明らかで、なんだかとても切ない気持ちになった。
ちなみに、オットー・シェンクは、一度(あまりに怠け者になっている)晩年の彼を叱ったことがあるのだという。「指揮をしないお前になど誰も興味などない」と。
(画質は必ずしも良くないが)バイロイト音楽祭での「トリスタンとイゾルデ」の貴重なリハーサル映像が抜粋で収録されているが、断片であれ、その音楽の力の凄まじさ、彼の指揮する姿勢の神々しさに、やはり指揮あってのカルロスだと首肯。亡くなる前にもう一度生で観たかった。

カルロス・クライバーといえば、きまって父エーリヒとの比較論が出てくる。カルロス自身も生涯、亡き父の見えないプレッシャーの下で苦しみ続けたと言われるが、彼のレパートリーの大部分が父のそれを引き継いだものであったことは、まぎれもない事実だ。ベルリン州立歌劇場の音楽総監督を務め、ベルクの《ヴォツェック》初演を「職を賭けて」断行したエーリヒは間違いなく「記録」に残る指揮者だが、カルロスは現代に生きるわれわれにとって今なお「記憶」に残る指揮者の筆頭だろう。
(吉田真「忘れられない思い出の《こうもり》」)
~「音楽現代」2005年8月号(芸術現代社)P93

父の演奏の完全さに恐れをなしてなのか、カルロスが録音を残さなかったベートーヴェンの「エロイカ」。エーリヒのそれは颯爽とした快速テンポながら、濃密で重厚な至芸。楽章を追うごとに音楽は勢いと光輝増す、安定のベートーヴェン。何より終楽章アレグロ・モルト—ポコ・アンダンテ—プレストの素晴らしさ。

ベートーヴェン:
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1950.5.8録音)
・交響曲第7番イ長調作品92(1950.5.9録音)
エーリヒ・クライバー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

そして、冒頭から猛烈な馬力を発揮するイ長調交響曲は、研ぎ澄まされた集中力でベートーヴェンの「崇高な精神」を描き切る。リヒャルト・ワーグナーはイ長調とヘ長調、同時に生み出された2つの交響曲をはじめ、その頃に生み出された作品たちを次のように評した。

《交響曲イ長調》と《交響曲ヘ長調》、そして完全に聴力を失ったベートーヴェンがこの輝かしい時期に書いた、これらの交響曲と密接な関係にある一連の作品。これほどまでに晴れがましいものを、地上の芸術は創造しえたためしがない。聴衆はいっさいの罪から解き放たれたように感じ、戯れのうちにかいま見るに終わった天国の余韻に浸りながら現象界へと戻ってくる。こうした奇跡にも等しい作品群は、神の啓示に秘められた悔悛と贖罪の最も深い意味を解き明かす。
池上純一訳「ベートーヴェン」(1870)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P153

何とも大袈裟な、手放しの賞賛だが、エーリヒ・クライバーの(古い)録音を聴いて思い当たるのが、ワーグナーのこの言葉。天国的な響きとはある意味錯覚で、ベートーヴェンの作品はあくまで人間的だと僕は思う。そして、そのヒューマニズムと熱狂、血沸き肉躍るその様を見事に表現した指揮者がエーリヒ・クライバーその人なのである。
(意外にも)テンポを抑え気味に始める終楽章アレグロ・コン・ブリオの、終結に向けクレッシェンド&アッチェレランドで突進するかと思いきや、(ややリタルダンド気味に)インテンポで押し通す方法に感激(実に衝撃的!)。

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