バーンスタイン指揮ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第1番(1981.10Live)

私にとって、聴衆との直接的な接触は大切です。演奏会が愛の行為であるなら、ディスク―それは演奏会で耳にするものを再生しようとするものです―もまた愛の行為であり、したがって、スタジオでの収録ではなく、実際の演奏会から生まれる方が望ましいのです。スタジオ録音は、いくら見事でも、つねに一定の冷たさが残りますから。公開での収録は、心躍る、熱狂的で、魅惑的なもので、そうしたすべての痕跡が残ります。現在の技術によって、実際上何の問題もなくライヴ収録できるのですから、どうしてそれを利用しない手があるでしょうか?
バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P130

最晩年のレナード・バーンスタインの言葉には、いちいち重みがある。
彼は聴衆とのふれあいを、すなわち実演を大切にした人だが、それを収録した音盤さえも音楽を愛する人々とのふれあいだと断言するのだから、音楽家の、否、人間の鑑のような人だ。
一言で表現するなら、彼の音楽はヒューマニスティックであり、そこには必ず愛がある。

早々と作品の核心に迫る第1楽章序奏ウン・ポコ・ソステヌートから熱い。しかし、彼のいう「愛の行為」の発露たる最大の見せ場は第2楽章アンダンテ・ソステヌートだろう。亡きゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリン独奏を配し、音楽はここぞとばかりにうねり、魂を崇高なる場所へと誘ってくれる。何というオーガズム!!

・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1981.10Live)

さらには、終楽章アダージョ―アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオの、まさに心躍る、熱狂的瞬間が多発する「交響曲第1番」に、久しぶりに僕は感応した。それにしてもゆったりと奏される第1主題の美しさ!そして、ギアチェンジ巧みに一気に駆け上がり爆発するコーダの壮絶さ(それでも音調はとことん柔らかい!)。

自分は年老いているし、余命いくばくもないということを十二分に承知しているにせよ、私には、自分が本当に世間との接触を絶てるとは思えないのです。ただ心安らかに死にたいとだけ、つまり、音楽から遠ざからず、つねに私自身でありたいとだけ願っています。けれども私は、自分が妻と同じ道を走っていることを確信していますし、自分は彼女の歩みに倣っているんだと意識しています・・・いつの日か、私は死という、モーツァルトが言っていたような、私たちの「親愛なる友」に出会わなければならないでしょう。私の妻よりもずっと沢山、私はお酒を飲み、煙草を吸い、指揮している時ばかりか私生活においても同様に、狂ったように暴れます。それが、現実なんです。
~同上書P176-177

バーンスタインは明らかに死期を悟っていたし、にもかかわらず最後まで不摂生を止めようとはしていなかった。習慣を変えることができなかった彼はある意味弱く、自分自身との闘いには負けたのだろうと思う。
早過ぎるバーンスタインの死を知ったとき、僕はとても落胆した。
彼の生み出す音楽が熱狂的なものであればあるほど、もっと命を大切にして欲しかった、長生きをして聴衆を楽しませて欲しかった。
すでに40年近くが経過するブラームスの交響曲は、決して色褪せない。

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