エーリヒ・クライバー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン第9番(1952.6録音)を聴いて思ふ

父エーリヒの偉大な録音に恐れをなしてなのか、カルロスが録音しなかった作品たち、例えば、ベートーヴェンなら交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」をエーリヒの録音で聴いてみると、古いモノラル録音から浮かび上がる強烈なパッションと強靭なエネルギーに思わず快哉を叫びたくなる。最適なテンポから繰り出される、決して乱れない地に足の着いた奔流。

クライバー自身は評論家に対して苦情を言う理由は何もなく、LPレコードが、理想的な演奏という概念をそれまで知られていなかった領域にまで広め、また熱心なファンにとっては劇場やコンサートホールではめったに、あるいはまったく聴く機会のない作品に親しむことを可能にするかもしれないと認識していた。
ジョン・ラッセル著/クラシックジャーナル編集部・北村みちよ・加藤晶訳「エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯」(アルファベータ)P274

エーリヒは決して商業録音の信奉者ではなかったそう。
しかし、彼が1950年代にデッカに残した幾つかの録音は、「すべての演奏家が録音をする際に失うものを彼も失った」とはいえ、70年近くを経た今も実に説得力のある、血沸き肉躍る熱波の如くの演奏だ(ベートーヴェンの第9番は、おそらく終楽章だけウィーンのムジークフェラインで、前3楽章はアムステルダムのコンセルトヘボウで別録りされたのだろう、音のニュアンスや広がりが微妙に異なる)。

そもそも僕は、終楽章で突然音楽の調子ががらっと変貌する(とってつけたような「歓喜の歌」)その体裁に(潜在的に)ずっと違和感があった(シラーの頌歌を交響曲第9番の最後に付すというアイディアは当初ベートーヴェンの頭にはなかったという見解もあるくらいだから、僕の直感的な違和感は意外に正しいのかもしれない)。
しかしながら、本人が決定稿として認め、世に問うていうのだからそのことについて詮索するつもりは毛頭ない。ただ、興味深いのは、録音のロケーションが異なるとはいえ、音質も明らかに違うのに、エーリヒ・クライバーの指揮する交響曲第9番は、僕の「違和感」を超え、実に統一感をもって耳に届くということだ。何とも不思議。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)
ジークリンデ・ワーグナー(コントラルト)
アントン・デルモータ(テノール)
ルートヴィヒ・ウェーバー(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
エーリヒ・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1952.6録音)

エーリヒ・クライバーの音楽は、余計なためを作らない。音楽は常に理想的な流れを見せ、一切の淀みなく前進する。それでいて軸に揺るぎがないのである。

だけど勉強への情熱に取り憑かれると、何が起きようとも気にならないんだ—とりわけ自分のことはね。
(1909年、家族宛手紙)
~同上書P39

プラハで学生生活を送っていた19歳の頃の手紙を読んでみても、彼の精神の頑固なまでの強靭さが伺える。

望みが叶えばいいが—劇場で働くのは実際にどういうことなのか、ひと目見たいのだ。シャルクがどんなふうにオーケストラに稽古をつけるのか見たい。いや、直接会って個人的に彼から教えを受けたい。集団のひとりとしてではなく—そんなことは、もううんざりだ。来年には実務に就くつもりでいる。僕が本気でやりたいことに近づくにはそうするしかないからだ。ウィーンで働ける見込みが本当にあると思えば、一瞬も躊躇うべきではないだろう。今語ったことはすべて「すごく真剣に」考えている。
~同上書P41

類い稀な自信と、見事に自律的なチャレンジ精神。実際エーリヒは、20歳の時点ですでに作曲家の意図を掴む洞察力と、歌手にもオーケストラにもその意図を正確に伝える手腕を持ち合わせていたという。

第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソは、冒頭、宇宙生成の漠とした気を明瞭に描き出し、確信の内に実体を成していく様が見事。また、第2楽章スケルツォ(モルト・ヴィヴァーチェ)の闊達で拡散する響き。そして、涙なくして聴けぬ第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの慈悲。

終楽章プレストの猛烈な熱気(バスのレチタティーヴォ直前のプレスト再現中編集ミスのように聴こえる箇所があるが、それも愛嬌?)。ルートヴィヒ・ウェーバーの独唱の巧さが光る。一方、四重唱のシーンでの分離の良さに比して、合唱は少々遠目にとられ、強音部では音割れが生じてしまうのが残念ではある。クライバーの指揮は熱を帯び、集中力は最後まで抜群、コーダに至るアクセルとブレーキを絶妙に使い分ける圧倒的なスピード感に電気が走るよう。ちなみに、プロデューサーはデッカの重鎮ヴィクター・オロフとジョン・カルショウ。

レコード・プロデューサーにとっての喜びは、音楽家の構想が現実化するのを助けることだ。それはテンポやフレージングについてコメントすることから、一杯のお茶を準備することまで、あらゆることが含まれている。
苦しみは、反復から生じることが多い。非常に慎重な音楽家は、望みのやりかたを見つけるまでに、あるパッセージや、ときには楽章全体を12回もくり返したりする。事前にその作品の練習や研究をしていなかったからではない。大抵の場合、つまらないことの集積が原因である—演奏しているホールやスタジオの音響が、いつも練習している場所と違う。使っている楽器が、いつもの楽器とわずかに異なる。ホールの温度が一度か二度高いか、低い。そんなことである。

ジョン・カルショウ著/山崎浩太郎訳「レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想」(学研)P235-236

レコーディングがスタジオでの大層な協同作業であった古き良き時代のエピソードからは、音盤への深い愛情が垣間見られ、それゆえにそこに収まる音楽までもが異様な熱を帯びて僕たちの耳に届く。レコード芸術とはかくあるべしなのだとあらためて思う。

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