思考を文章化するのは極めて難しい。頭の中で言いたいことはたくさんあるのだが、それを大勢の人に理解できるように目に見える形にするには相応のテクニックが必要なのだろう。特に、独りきりで問答するとなるとなおさらだ。
今、「関係」というものがごくごく僅かながら話題になってきているように思う。これは、僕自身が企業研修などで最近テーマにし、口を酸っぱくして語っていることなのだが、どこの会社、組織(あるいは個人という観点からみても)も「成果」というものを重視する。「成果」というのはプロセスの「結果」なわけだから、要は「結果」を出すことに誰もが躍起になる。「結果」を得るには、まず「行動」変容が重要な要素になる。「行動」変容を促すには「思考の癖」に気づき、より前向き・素直な姿勢に自らを変えていかなければならない。そこでネックになるのが「他」との関係である。人間は誰しも(というより物は何でも)環境にもろに左右される。つまり世の中に存在するすべてのものがそのもの一つで成り立っているのではなく、どんなものでも「他」との関係、相対的な関係の中で成立しているということだ。よって「絶対」というものはいわゆる「神仏」というものにしか存在しないことになる。般若心経にある「色即是空、空即是色」こそが宇宙の真理ということなのだろう。
他人と議論することで思考の幅が拡がる。新しいアイデアも湧いてくる。そして最後には、物事が単純明快に収斂される。人間にとって「他(それは人であり、自然であり)」との関係こそが「全て」なのである。要は、他(人間だけではなく自然、つまり生きとし生けるもの全て)を意識して「関係」に気づき、より良く改善していくことが人間一人一人の課題なのだとつくづく僕は思う。
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466&第24番ハ短調K.491
内田光子(ピアノ)
ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団
モーツァルトの稀な「翳」の部分。傑作ピアノ協奏曲2曲を収めた名盤。いずれもウィーン時代の絶頂期に書かれたものである。にもかかわらず、これほどまでに人間の「苦悩」を表現した巨大な音楽は珍しい。
モーツァルトはその名の通り「神」の子であったのだと思う。彼は「相対的」な関係の中に生きず、あくまで「絶対的」な存在として君臨していたのではないか。よって「環境」の影響を受けず「唯我独尊」の存在として名作を次々世に送り出した。独りきりの問答で音楽を創作した芸術家なのである。「天才」とはそういう人々のことを言うのだろう。唯一無二の存在。
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[…] ところで、ベートーヴェンが自作のコンチェルトのカデンツァをいくつか創作した際、高く評価していたモーツァルトのK.466のためのカデンツァも書いている。このカデンツァ、とても有名でグルダやアルゲリッチ、あるいは内田光子など現代でも多くのピアニストが採用するほど。さしづめ、モーツァルトとベートーヴェンの共演というところ。 […]