ブラームスの合唱作品に身を浸すと、器楽作品に比較して一層力が外へ外へと拡散する印象を受ける。ブラームスは、どちらかというと言葉に感応しやすい人だったのかもしれない。
言葉というのは実に難しい。
言葉があるゆえ意思の疎通が容易であるのだが、言葉は一方自由を奪う。
確かに想像を喚起するのだが、想像の幅を狭めるのも言葉であるゆえ。
ブラームスの音楽はとても男性的だ。
整理整頓され、知的でまた重厚だ。
ブラームスは、連作歌曲を募る音楽家協会のコンテスト企画を批判した。
「若い作曲家に、ひどい歌曲を書くように激励しろというのか。歌曲なんか、もう充分あるじゃないか。(今度だって)ルービンシュタインの歌曲が2曲、僕のが2曲、イエンゼンが1曲歌われることになっているんだよ。僕なら、毎年合唱作品を公募するよ。合唱ものは課題も多い。がっちり四声体で書かなくてはならないし。書ける者がいるとも思えないが、コンテストともなれば、皆それなりに努力するだろう」
~ホイベルガー、リヒャルト・フェリンガー著/天崎浩二編・訳/関根裕子共訳「ブラームス回想録集2 ブラームスは語る」(音楽之友社)P94
詩に触発されるブラームスは和声を重視する。続いて次のようなエピソードが紹介される。
また夜中の1時まで話しこんでしまった。ブラームスは、「ドイツ・ロマン派の詩人シャミッソーの『涙』にも作曲したが、発表しなかった」という話から始め、あげくには、
「作曲しなかったドイツ人の詩なんて、あったかなぁ」
~同上書P94
いかにも大袈裟な言い様だが、それほどのものなのだろうと思う。
ロマン派以降の音楽が、しかも世俗合唱曲が、宗教音楽のような透明感をもって響くのはガーディナーの力量なのだろうか。ともすると音を積み上げ、見通しが悪くなりがちのブラームスの音楽にあって、これほどまでに軽やかに、ドライに鳴る様子は実に神々しい。特に作品104!!