視覚こそが視野を狭めるのだと思う。
空想には心の眼を使う方が良い。
いまだ30代のペーター・ホフマンの歌うトリスタンの奇蹟。
映像で確認してみても、第3幕第1場のトリスタンの覚醒後の長いモノローグがやはり素晴らしい。死の淵を彷徨ったトリスタンが見たあの世は、想像を絶する真の意味での光(すなわち理)の世界だったのだろうか。
こうしてここで目覚めたが—
わたしがいたのは別の場所だ。
しかしどこにいたかを
おまえに言うわけにはいかない。
わたしがいたのは
この身にとっては常住の地で、
わたしは遠からずそこに帰って行く—
果てもなく広がる
常夜の国、
そこでわたしたちに
ゆだねられた知はただひとつ、
神聖な
永遠の忘却!
~日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「トリスタンとイゾルデ」(白水社)P109
若くしてパーキンソン病を患い、表舞台から身を引かざるを得なくなったホフマンの熱唱と信念満ちる堂々たる意志。粘るバーンスタインのテンポが一層深遠さを抉り、音楽を尊いものに昇華する。
目覚めたトリスタンは早々と俗世(官能)の波に飲み込まれそうになるが、そのあたりの感情の微妙な変化も彼は見事に表現する。
イゾルデはまだ
太陽の国にいる!
イゾルデはまだ
昼の光を浴びている!
ああ、切ないばかりに
彼女が恋しい、
彼女に会いたい
その一念は募るばかり!
~同上書P109-111
一方、ヒルデガルト・ベーレンスのイゾルデは確かに素晴らしい。しかし、第3幕第3場愛の死「優しく穏やかに」の歌唱を視聴してみて思うのは、彼女のイゾルデは死を迎えても太陽の国から脱することはできなかったのではないかという危惧だ(光が強過ぎる)。仮にそうならば、イゾルデはトリスタンと一つになれないことになる。
映像はむしろない方が良いと僕は思う。編集含めた方法がいかにも古いせいもあるのだろう(例えば、第3幕前奏曲中のイングリッシュホルン・ソロも奏者の全身を映せば良いのになぜか楽器だけをフォーカスするという方法をとる)、どうにも興醒めだ(期待が大きかっただけに)。恍惚の、官能の物語を極限まで粘ったテンポとうねりで創出するバーンスタインとオーケストラの壮絶なパフォーマンスは、会場に居合わせるなら別だが、耳だけで享受する方が身に沁み、心に届く。
ワーグナーはいつも病的に狂乱して、いつも作曲していた。そう思わないかい。彼は狂ってたし、誇大妄想者だった。
~ジョナサン・コット著/山田治生訳「レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー」(アルファベータ)P167