とても落ち着いた、静かな印象。
波風立つことなく、音調は一定に、無理なく、しかし時に居丈高に咆哮する様子に、今夜のブラームスはおそらく名演揃いだろうと直感した。
信じることが素直にできなくなった現代人にこそ必要な「信じるということ」の一端を垣間見た。音楽の隅々に、ヨハネス・ブラームスの深層から湧き出づる神々への感謝の念が溢れていた。
ベルトラン・ド・ビリーを聴いたのは初めてだ。
とても明快な棒で、どのフレーズもニュアンス豊かに、そして緊張感途切れず最後まで引っ張る技術は超一流。もちろん形だけではない。音の内面から湧き上がる作曲者への尋常でない思い入れの発露。素晴らしかった。常時抑制の利いた音楽。円やかな響きと、フリードリヒ・ヘルダーリンの詩を見事に具現化する崇高な音作り。冒頭、「運命の歌」から痺れた。
運命を超越した者たちは、
眠る乳飲み児のごとく天上の息を吸っている。
つつましい蕾の中で
彼らの純潔も守られている。
(三ヶ尻正訳)
音楽の荒々しさが、何とも静けさに満ちるのである。特に、僕は第3部の、第1部主題の再現箇所に指揮者の確信を感じ、ヘルダーリンの詩と同様、ブラームスの作曲の腕の力量はもちろんのこと、今夜のオーケストラの表現能力の高さに感激した。
続く「ネーニエ(哀悼の歌)」は、哀しみよりも喜びの表現であり、死というものの神性を貫くような音楽の美しさに僕は思わず唸った。
新日本フィルハーモニー交響楽団
ジェイド〈サントリーホール・シリーズ〉第607回定期演奏会
2019年7月4日(木)19時開演
サントリーホール
高橋絵理(ソプラノ)
与那城敬(バリトン)
栗友会合唱団
栗山文昭(合唱指揮)
崔文洙(コンサートマスター)
ベルトラン・ド・ビリー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
ブラームス:
・運命の歌作品54
・ネーニエ(哀悼の歌)作品82
休憩
・ドイツ・レクイエム作品45(1869年の全曲初演から150年記念)
20分の休憩を挟み、後半は「ドイツ・レクイエム」!
筆舌に尽くし難い、白熱のレクイエム!
第1曲合唱「悲しんでいる人たちは幸いである」の柔らかな音、安寧の音、そして喜びの歌。死というものが決して終りではないことを、永遠の別れではないことを切に歌う合唱の神々しさ。また、第2曲合唱「人はみな草のごとく」を洋々と経ながら、音楽は徐々に高揚、「ペテロの第1の手紙1:24-25」の箇所「しかし、主の御言は永遠に生き続ける」での強力な爆弾のごとくの合唱に僕は思わず覚醒した。そして、最初のクライマックスである第3曲バリトン独唱を伴う合唱「主よ、わが終りと」での、与那城敬の深みのある圧倒的歌唱に拝跪。最も短い第4曲合唱「万軍の主よ、あなたのすまいは」を経て、第2のクライマックスを築く第5曲ソプラノ独唱を伴う合唱「このように、あなたがたも今は不安がある」での、高橋絵理の力強い歌唱の素晴らしさ。同様に、第6曲バリトン独唱を伴う合唱「この地上には永遠の都はない」の与那城敬の歌唱には、人声を超えた神性が僕には感じられたほど。
見よ、あなたがたに奥義を告げよう。
私たちすべては、眠り続けるのではない。
そうではなく、私たちすべては変えられるのだ。
またたく間に、一瞬にして、
終りのラッパが鳴り響くときに。
(三ヶ尻正訳)
ここまで一切の弛緩なく、音楽には異様な(?)力が漲っていた。終曲合唱「今から後、主にあって死ぬ人は」の高貴さ。何と動きのある生き生きとした演奏であったことか。そこにはブラームスの揺れる俗世の念と信仰篤い聖なる魂の同居があった。
ちなみに、ソプラノは舞台下手奥、合唱団手前に位置、そして、バリトンは指揮者の真横、上手側に位置するという立体的な配置であったことを付しておく。