ブラームスは軽く試し弾きをすると、《バラードト短調》、《間奏曲》を数曲、《ラプソディ変ホ長調》などを次々と演奏し、結局新作の作品118と119を全部弾き切ってしまったのです。まるで心と魂とで即興演奏をしているかのようで、時には口ずさみながら、まわりのことは一切頭にないようでした。ブラームスのピアノ演奏は、その作品自体のように本当に堂々として、しかも高貴です。
(イローナ・アイベンシュッツ「ブラームス回想録」)
~日本ブラームス協会編「ブラームスの『実像』—回想録、交遊録、探訪記にみる作曲家の素顔」(音楽之友社)P67
ここに、ブラームスのピアノ小品を理想的に演奏するための手がかりがあるように思う。たぶん、最も近いのはグレン・グールドのものだろう。
まるで深淵を覗き込むヴァレリー・アファナシエフのブラームス。
頭脳偏重の、あまりに考え抜かれた彼の演奏に、ある日、ある時、突然僕は辟易した。
しかし、この時の演奏だけは、なぜか別格だ。
情感を排し、ただひたすら宇宙に舞うような、ほとんど中庸の音楽表現とでもいうのか、喜びも悲しみも超えた、不可思議な音の世界。
ちなみに、浅田彰氏が興味深い文章をライナーノーツに寄せておられるので抜粋する。
たとえば作品119-1について、作曲家はクララ・シューマンへの手紙のなかでこう述べている。「この小曲は格別にメランコリックです。だから『非常にゆっくりと』という表示は十分ではありません。ひとつひとつの小節、ひとつひとつの音は、まるで、これらの不協和音からの官能的な喜びをともなって、各々の小節や音からメランコリーを吸い込むかのように、リタルダンドで響かなければなりません。」これこそ、ここでアファナシエフが忠実に実現してみせていることではなかったか。彼は、常識的なブラームス像を突き破ることで、ブラームスその人が晩年に夢見ていた小さくしかも無限に近い抽象的な音の宇宙を現代に甦らせたのである。
~COCO-75090ライナーノーツ
ヴァレリー・アファナシエフは、常識を打ち破るピアニストだ。しかし、彼の恣意性が表面化してしまうと、その試み自体元も子もないものになってしまう。ブラームスの要求する要素をギリギリのところで押し止め、恣意性を排除した演奏が、隅から隅まで感動的なこの録音なのだと僕は思う。
間奏曲変ホ長調作品117-1の幻想。また、間奏曲イ長調作品118-2の慈しみ。スローテンポの曲に顕れるアファナシエフの慈悲の心が何とも愛おしい。あるいは間奏曲ヘ短調作品118-4の深沈たる調べに垣間見える深い哀切の表情と激烈なパッションの発露の対比が素晴らしい。極めつけは浅田氏の指摘する作品119-1の、並はずれた即興性(多分非常に計算されたものだが)。可憐で静かで、実に美しい。それは、頑固なヨハネス・ブラームスが、素直になった瞬間の刻印のよう。
「君がこゝろは」
君がこゝろは蟋蟀の
風にさそはれ鳴くごとく
朝影清き花草に
惜しき涙をそゝぐらむ
それかきならす玉琴の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ
あゝなどかくは触れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾こひに
触れたまはぬぞ恨みなる
~島崎藤村「藤村詩集」(新潮文庫)P22
藤村の慟哭は、ブラームス晩年の慟哭の透明感に通じるものがある。特に、アファナシエフの演奏においては。