これは個人的な刷り込みなのか、それとも実際に万人を唸らせるだけの価値ある凄演なのか、つまり幻なのか現なのか、その判断は簡単にできないけれど、初めて聴いたときから40年近くを経過しても相変わらず魂を震撼させる力に漲っていることをあらためて確信する。名演奏の名盤だ、間違いない。
ショパンのソナタ第2番「葬送」。ウラディーミル・ホロヴィッツの弾くそれは、第1楽章グラーヴェ冒頭から他を冠絶する圧倒的剛毅さと、翻って主部の繊細な響きの対比が見事。また、感傷的な第2楽章スケルツォを経て、第3楽章葬送行進曲の、何といってもどこか明るさを伴うトリオの憂愁。終楽章の、あまりに刹那の悲しみは時空を超える。
この頃のホロヴィッツの演奏には、感情の発露が甚だしい。
客観性よりも主観性を重視した、独特の節回しとでもいうのか、すべてが明らかにホロヴィッツの音の匂いがするのである。ラフマニノフの「音の絵」も、技術の巧みさも相まって、北方ロシアの鬱積した想念が想像以上に激的に描かれる。何という暗澹たる調べか。
そして、シューマンのアラベスクは、喜びに溢れる安寧の音楽。
宗教問題などでも、畢竟するところは、こどもような無邪気なところに帰すると言ってよい。っそこに一展開があるのである。論語に、思い邪なしということがあるが、こどもというものは、わがままで残酷なことを平気でやる。けれどもこどもというものは、そのわがままをそのまま投げ出している。すなわち邪なしである。何となく無心のところがある。その残酷なところは隠しているというのではない。そこに言うに言われないというようなことになるが、仕方がないから、雪の響き、夜雨の声ということにしてしまう。何でも南無阿弥陀仏にしてしまう。どちらかになってしまうということに、結局は帰するのである。こんなものが宗教にないというと、どうもいけないように私は考えているのである。
~鈴木大拙「禅とは何か」(角川ソフィア文庫)P200
わがままをそのまま投げ出しているのが、ここにあるホロヴィッツの演奏そのものだ。邪なしゆえ、聴いていて心に迫る。