エマーソン弦楽四重奏団 ショスタコーヴィチ 四重奏曲第1番ほか(1999.6&7Live)を聴いて思ふ

世界と自己との一体なくして人は生きることはできない。
その意味で、どうしても人は環境の影響を受ける。
影響を受けるのは良い。しかし、そこに決して振り回されないことだ。
それには、絶対的に「信」が要る。自己に対しても、周囲に対しても。それも理由のない「信」だ。

ショスタコーヴィチの音楽に、僕たちはつい理由を求めたくなる。いつの時期に、どんな理由で生み出されたものなのか。確かに、彼にも大いなる意図はあっただろう。それも時代の要請だ。しかし、第一念はもっと単純なものなのかもしれないと、最初の3つの弦楽四重奏曲を聴きながら考えた。

私は、特別、何かを考えたり感じたりすることなく、それを書き始めました。そこから何かが生まれるなど思ってもいませんでした。何といっても、弦楽四重奏曲はもっとも難しい音楽ジャンルのひとつです。1ページ目は斬新な試作のようなつもりで、四重奏形式で書きましたが、その先それを完成させようとか公表しようとは、考えてもいませんでした。通常、私は発表しないものも、かなり頻繁に書きます。それらは私のようなタイプの作曲家にとっての習作なのです。しかしその後、弦楽四重奏曲の作曲に取り憑かれ、相当なスピードでそれを仕上げました。
ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P152

後年も不本意な作だと作曲者が語る第1番ハ長調は、とはいえ、美しい傑作だ。時は、第二次大戦直前の、しかし、スターリニズムの嵐真っ盛りの不穏な時代であるにもかかわらず、音楽はいたって健康的で、明朗。エマーソン弦楽四重奏団の演奏は、極めて快活だ。

そして、親友イヴァン・ソレルチンスキーの急逝直後(戦時中)に筆を執った第2番イ長調の熱量。

作曲の過程で、私はかなり気をもんだり不安になったりします。私を悩ませているのは、作曲するときの電光石火の速さです。それが良いことでないのは確かです。私のような速度で作曲すべきではないのです・・・ひどく消耗しますし、とくに楽しいものではありませんし、結果として、時間を無駄にしていなかったという確信など、まったく持てないものなのです。それでも悪い習慣が再びでしゃばり始め、以前のように私は過度な速さで作曲してしまうのです。
~同上書P191

第1楽章「序曲」の、ショスタコーヴィチ風アイロニーに釘付け、続く第2楽章「レチタティーヴォとロマンス」の重厚な憂い。また、第3楽章「ワルツ」の不気味な(?)ダンスに感応するも、重要なのは終楽章「主題と変奏」。どこか親しみの持てる悲しい旋律が大いに動き回る(?)様に、どうやら作曲者の不安が刻まれるよう(しかし、それこそが聴く者の心を刺激するのだ)。エマーソン弦楽四重奏団のアンサンブルも一糸乱れず、ショスタコーヴィチの荒れ狂う魂を表現する。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏曲第1番ハ長調作品49(1938)
・弦楽四重奏曲第2番イ長調作品68(1944)
・弦楽四重奏曲第3番ヘ長調作品73(1946)
エマーソン弦楽四重奏団
ユージン・ドラッカー(ヴァイオリン)
フィリップ・セッツァー(ヴァイオリン)
ローレンス・ダットン(ヴィオラ)
デヴィッド・フィンケル(チェロ)(1999.6&7Live)

そして、(相変わらずの速筆だったらしい)解放された音調を湛える第3番ヘ長調の官能。この作品について(ベートーヴェン四重奏団の)ヴァシーリィ・シリンスキーに宛ててショスタコーヴィチは次のように書いたという。

この弦楽四重奏曲ほど、自分の作品に満足感を感じたことはなかったように思います。思い違いかもしれませんが、今は本当にそう感じているのです。
~同上書P200

納得の傑作。例えば、第1楽章アレグレットの可憐な表情に見る光と翳。この自由な音調の移ろいは天才的。演奏も絶品だ。あるいは、激する第3楽章アレグロ・ノン・トロッポの刃物ような切れ味に心躍り、特に第4楽章アダージョからアタッカで続く終楽章モデラート—アダージョの安寧に、音楽の(意図のない)絶対性を僕は感じとる。

全曲アスペン音楽祭での実況録音。

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